2022年8月19日金曜日

北条義時の御内人と承久の乱

 義時が他の御家人と一線を画すのは、頼朝の秘儀を唯一受け継いだ存在だから。

その中の一つが特殊な武士団の形成。
一般的な御家人の武士団の構成。
棟梁門葉(血族)郎等(家来)
 
頼朝の武士団の構成。
鎌倉殿門葉(源氏血族)ー家子(頼朝個人に仕える郎等)ー御家人(源氏に仕える郎等)

源氏や幕府に仕える家来とは別に、頼朝個人に仕える「家子(いえのこ)」と呼ばれる家来を新設。
「家子」には容姿端麗、文武両道な者もいれば、武士に限らず特殊技能を持っていたり、正体不明で特別任務を遂行する為の者もいた。(いわゆる懐刀)。

義時や梶原景時などは、丁度、家子と御家人の間くらいにいて、その関係性を学んでいた。
頼朝の死後、義時はこの仕組みをそのまま自らの武士団に取り入れた。
義時の時代には実朝の反対にあって、これを正式な武士団の一 員とは認められないが、後には、これが北条家の中でも義時の直径一族の得宗宗家のみ存在した「御内人」となる。
現在のドラマの中では、善児やトウがこれに当たると言える。
この二人は架空の存在だが、実際にその役割を果たしていた人物がいた訳だ。
史実では、金窪行親(かなくぼゆきちか)がこれに当たると思われる。
「吾妻鏡」にも何度か登場しており、間違いなく実在したものと思われる。
大河で最初の登場は今回の比企氏の乱で、あの中に影のように存在し、御家人達が躊躇するような仕事をこなし、一御家人の一族を女子供を含めて一日で皆殺しにした。
この後の頼家の暗殺を行った義時の家来とされている人物も、金窪行親の可能性が大きい。
何故なら、暗殺後に頼家の13人の家来が意趣返しを兼ねて鎌倉で謀反を起こそうとするが、金窪行親が未然に打ち取ったと言う記録があり、頼家暗殺から一連の流れで関わっていたと考えられる。
驚くべき事に、屈強な頼家直属の配下13人を、金窪一人で始末したとある。
金窪は将軍の刀の見定めも行っていたようで、武器製造にも造詣が深い人物だったようだ。
しかし、この人物の痕跡はこれで途絶えてしまう。
もう一人あげるなら、やはり伊賀光季(いがみつすえ)である。
この人物は、義時が姫の前と離縁後に継室とした伊賀の方の兄で、義時にとっては義理の兄にあたり外戚となる。
この伊賀一族はとても強かったので、義時はそこに目をつけた。
すぐに取り立てて、一気に京都守護に付けた。もう一人の京都守護が重鎮大江広元の嫡男であることから、異例の抜擢である事がわかる。
また、伊賀光季には贄田三郎・四郎を筆頭に一騎当千の家人が数十人おり、これを取り込む事に成功している。
義時は後鳥羽上皇との対決を見据えて最強の御内人の光季を京都守護に配置した。
予想通りこの光季一党と朝廷方の激突が「承久の乱」の皮切りになる。
京都で孤立化した伊賀勢は、朝廷軍800人に対し僅か27人で決死の戦いに臨み全員が壮絶な死を迎える。
光季は最期に東に向かい義時の武運を祈り、西に向かって阿弥陀如来に成仏を祈り腹を切って火に身を投じる。義時と御内人の強力な関係性を示す逸話である。
義時はこの事を知り、後鳥羽上皇との決戦を決意する。
さて、ここから先は三谷さんがどう扱い、描かれるか楽しみである。


登場人物のその後。
①政子も義時の死の翌年の1225年に69歳で、大江広元も同じ年に78歳でこの世を去る。
②泰時は1232年に御成敗式目を定め、その10年後の1242年に60歳でこの世を去る。
③時房は1225年に泰時から連署(執権の補佐役、幕府のナンバー3)に任命される。時房が初代連署である。その15年後の1240年に66歳でこの世を去る。
④三浦義村は1239年に72歳でこの世を去る。御家人の中で一番長生き。
そして義村の死の8年後の1247年に泰時の孫の時頼によって、三浦一族は滅亡。これを宝治合戦と言う。
⑤後鳥羽上皇は隠岐島に流された後、その地で18年間過ごし、1239年に60歳で薨去。
⑥三寅は政子の死の翌年の1226年に4代将軍となり頼経と名を変えるが、実権はない状態。やがて北条氏との対立も深まり、1246年に京都へ強制送還され、その10年後の1256年に39歳でこの世を去る。
⑦実衣(阿波局)は政子が亡くなった2年後の1227年にこの世を去る。生まれた年が不明なので、政子の妹からすると恐らく65歳前後で亡くなったと思われる。
⑧りく(牧の方)は1229年にこの世を去る。この方も生まれた年が不明で、政子と同じ位と言われているので、恐らく70歳前後で亡くなったと思われる。
⑨のえ(伊賀の方)は伊賀氏の変の後、政子によって伊豆に配流され、そして同じ年の1224年12月24日、病から危篤状態になり、間もなくこの世を去る。生まれた年が不明なので何歳で亡くなったかは分からない。
⑩政村は伊賀氏の変の後、本来ならば殺されている所を泰時の計らいで命が保証される。その後も幕府の中枢にあり、1256年に52歳で連署となる。1264年に先代執権の時頼の子の時宗がまだ14歳と若かった為、中継ぎとして60歳で7代目の執権となる(伊賀の方の野望は変から40年後に実現することになる)。1268年に時宗に執権を譲り、蒙古の国書問題に対応する為に連署に再就任。5年後の1273年に69歳でこの世を去りる。

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