2022年12月3日土曜日

東京国立博物館の建設に貢献した九州人ふたり:町田&佐藤

 町田 久成(まちだ ひさなり / ひさすみ、1838年1月27日天保9年1月2日) - 1897年明治30年)9月15日)は、明治時代日本官僚僧侶。旧薩摩藩士島津氏庶流)。通称・民部、号は石谷

慶応元年(1865年)、他の18名と共にイギリスへ留学。



のちに東京国立博物館の初代館長となる。後に出家して三井寺光浄院の住職となり、僧正となる。

実弟に小松清緝(改名前は町田申四郎実種)

小松清廉の妻の千賀は叔母にあたる。



薩摩藩出身で、「博物館の父」ともいわれる町田久成(1838~97)の胸像。東京国立博物館(東京都台東区)に建立された。「久成のことを知ってほしい」と子孫が企画。鹿児島市在住で、文化勲章を受章した彫刻家中村晋也さん当時(90)が制作した。
町田は、現在の鹿児島市石谷町出身。1865年に薩摩藩英国留学生として渡欧し、大英博物館やパリ万国博覧会に感銘を受けた。帰国後は新政府の文化事業にも携わり、82年に国立博物館の初代館長になった。
町田久成の弟で、留学生として共に渡欧した申四郎の孫、町田忠夫さん(80)=福岡市在住=が、他の留学生の子孫らに呼びかけて企画。
また、胸像作成において、発注者の予算が底をついてしまい、大理石で作る台座の費用が足りなくなり、この台座の作成費用約160万円についてクラウドファンディングで資金調達をした経緯がある。
台座正面の碑銘「初代 町田久成館長像」は安倍晋三内閣総理大臣の書




佐藤 慶太郎(さとう けいたろう、1868年11月22日明治元年10月9日〉 – 1940年(昭和15年)1月17日)は、福岡県出身の実業家

経歴[編集]

1868年(明治元年)、筑前国遠賀郡陣原村(現・福岡県北九州市八幡西区陣原(じんのはる)[1])に出生。

1886年(明治19年)、福岡県立英語専修修猷館(現・修猷館高等学校)に入学する。その後、法律家を志し修猷館を中退し、明治法律学校(現・明治大学)に入学した。

卒業後、帰郷し筑豊炭田の積出港であった福岡県遠賀郡若松町において石炭商の仕事に従事、独立後に炭鉱経営者として成功を収めた。しかし持病の胃腸病が悪化したため経営の第一線から退き、1918年(大正7年)に若松市会議長に就任した。

第一次世界大戦後の戦後恐慌下、石炭鉱業連合会の設立構想を三井、三菱、古河等の財閥や有力者に熱心に説いてまわり、創設に尽力した。1921年(大正10年)、連合会創設のために上京した折り、目にした「時事新報」社説で、東京府美術館(現・東京都美術館)の建設計画が資金難のため頓挫しつつあることを知り、面識があった東京府知事阿部浩に即座に100万円(現在の約33億円相当)の寄付を申し出た。これにより、岡倉覚三(天心)や横山大観らの「美術館が欲しい」という明治以来の日本美術界の悲願が実現することとなった。






高塔山の銅像


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