2022年12月8日木曜日

光明皇后

 

宿命とともに生きて 〜光明皇后 苦悩の素顔〜 NHK 英雄たちの選択

初回放送日: 2022年11月30日

聖武天皇を支えた才色兼備の女性として知られる光明皇后。しかし、奈良時代の最盛期、華やかな皇后としての活躍の陰で、彼女は重いプレッシャーと苦悩を抱えていた・・・。 正倉院宝物に代表される華やかな天平文化のイメージそのままに、美しく聡明な女性として知られる光明皇后。しかし絶大な力を持つ藤原氏の娘として、彼女は生まれながらに重い宿命を背負っていた!何よりも期待されたのが、聖武天皇との間に男子をもうけ、次の天皇とすること。

ところが、その願いが叶わなかった光明皇后には、次々と難しい選択が迫られる。奈良時代に精通した識者たちが、光明皇后の知られざる苦悩の素顔に迫る。


光明皇后の生い立ちで、藤原と橘の家系の話がでてきた。 家系図は以下のとおり。 橘諸兄とは義兄妹である。





家系図に登場する主な女性の人物を紹介する。

(母)県

犬養橘三千代

光明皇后は、藤原不比等と県犬養橘三千代(あがたのいぬかいのたちばなのみちよ)の子として誕生しました。

県犬養橘三千代は、天武天皇から聖武天皇という歴代天皇に仕えた女官(にょかん)です。

宮廷に強い影響力を持っており、光明皇后の立后(りっこう)に貢献したことでも知られています。

光明皇后が聖武天皇の妃となることにより、当時の藤原四子政権(※1)は盤石となりました。

※1 藤原不比等の子。武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂の4兄弟。

 

さて実は、県犬養橘三千代は不比等の後妻。

不比等に嫁ぐ前には、美努王(みののおう)という人物との間に、

橘諸兄(たちばなのもろえ)らをもうけていました。

 

橘諸兄とは藤原四子の死後、実権を握ることになる人物です。

権力者が変われど、彼女の血が関係していることはすごいですね。

 

ちなみに県犬養橘三千代は不比等との間には、光明皇后以外にも多比能(たびの)という娘が生まれています。

この女性は橘諸兄と結婚し、生まれたのが橘奈良麻呂(※2)です。

まあ、血が濃いですね・・・。みんな親戚。

※2 藤原仲麻呂を除こうとするも(=橘奈良麻呂の変)、失敗して獄死した人物。

元正天皇(聖武天皇のおば)

さて、次は光明皇后の夫・聖武天皇のおばにあたる元正天皇です。

奈良時代は女帝が珍しくはありません。

元正天皇の母も元明天皇ですし、その母親は持統天皇(※3)です。

さらに後述しますが、光明皇后の娘も即位しています。

※3 天武天皇の皇后。天武天皇の死後に即位し、藤原京の造営などを行った。

 

元明・元正天皇は文武天皇(※4)が若くして崩御し、

まだ幼い聖武天皇が成長するための中継ぎとして即位したといわれます。

※4 元明天皇の子

ですが実際には「お飾り」だったわけではなく、橘諸兄や藤原仲麻呂たちとともに政務を執っていたそうで、

元正天皇の在位中には養老律令(※5)の制定や三世一身法(※6)の発布などが行われています。

※5 大宝律令の後に成立した律令のこと。内容に大差はない。
※6 開墾(かいこん)した土地を、曽孫(有力説)の代まで私有することを認めた法

吉備内親王

吉備内親王は元正天皇の妹です。

天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子(くさかべのみこ)と、元明天皇との間に生まれました。

このように非常に良い血を引いており、さらに天武天皇の孫・長屋王と結婚しています。

 

ということで、吉備内親王と長屋王との間に生まれた子どもたちも、

非常に優れた血筋ということになります。

つまり長屋王とその子たちは、皇位候補となる可能性が高かったのです。

 

しかし、この血筋の良さが災いしました。

長屋王と敵対していた藤原四子たちの謀略によって、長屋王は自殺に追い込まれます。

さらに吉備内親王と子どもたちもその翌日、首をくくって自殺しました。

これを長屋王の変といい、藤原四子が権力を握るきっかけになりました。

孝謙天皇(称徳天皇)

最後に紹介するのは、光明皇后と聖武天皇の間にできた娘です。

この女性は二度天皇に即位(=重祚/ちょうそ)したため、

孝謙天皇称徳天皇という二つの呼び方があります。

そんな孝謙天皇(称徳天皇)は、なかなかの大事件を引き起こしていますよ。

 

孝謙天皇は藤原仲麻呂を用いていましたが、やがて淳仁(じゅんにん)天皇に譲位。

やがて道鏡という僧を寵愛(ちょうあい)するようになります。

一方、仲麻呂は淳仁天皇から「恵美押勝(えみのおしかつ)」という名を賜るほど、密接な関係に。

この頃の藤原仲麻呂の権力は、絶頂に達していたのです。

 

ですが仲麻呂が信を得ていた光明皇后が亡くなると、朝廷内は分裂。

孝謙上皇と道鏡淳仁天皇と仲麻呂という対立が浮き彫りとなりました。

台頭してきた道鏡を排除しようと、仲麻呂は乱(=藤原仲麻呂の乱)を起こすも敗死。

その後孝謙上皇は重祚して称徳天皇となり、ますます道鏡を重用するようになります。

 

ですが道鏡という僧は野心家で、自分が皇位に就こうと考えていました。

そこで宇佐八幡宮信託事件(※7)が起こります。

※7 道鏡を皇位に、という宇佐八幡宮からの神託を確かめに行った和気清麻呂(わけのきよまろ)が、それは嘘であると奏上したこと。

この翌年、称徳天皇は子どもを残さぬまま死去。

道鏡も下野国に流され、皇位は天智天皇の孫・光仁(こうにん)天皇へと移ることになりました。

 


 

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