12月にはいったせいか、昨日忠臣蔵の話がTVに登場した。通常の仇討ドラマではなくて、義士たちの健康状態がメインの話であった。
そのキーマンは藩医の「寺井玄渓」。
明石藩医だったが、藩の取りつぶしで主家を失った玄渓は京都で医業を開業していたが、元禄13年(1700年)、播磨国赤穂藩藩医として招かれ、浅野長矩に300石5人扶持で仕えた。
元禄14年(1701年)3月14日の浅野長矩殿中刃傷(赤穂事件)時には江戸藩邸に詰めていたが、その後直ちに赤穂へ向かい、終始国家老の大石良雄に従って行動する。
赤穂城開城後は京都へ移った。元禄15年(1702年)7月、大石良雄が江戸へ下る決意をすると玄渓もお供しようとしたが、8月6日に良雄は書簡を送ってこれを制止している。玄渓は代わりに息子玄達を江戸へ送って赤穂浪士たちの医療を担当させた。
自らは京都に残り町医として働きながら、義士たちの健康状態を文通で情報交換し続け、これが四十七士のネットワークとなって 結束をたかめたという。大石は医者を使って義士たちの健康や心理をつかんでいた。当時の治療カルテも残っているのには驚いた。
宝永8年(1711年)2月20日に京都で死去。享年90の長寿であった。
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