2022年12月24日土曜日

マクナマラ国防長官とキューバ危機

 ロバート・ストレンジ・マクナマラRobert Strange McNamara1916年6月9日 - 2009年7月6日)は、アメリカ合衆国政治家実業家

第5代世界銀行グループ総裁ジョン・F・ケネディリンドン・ジョンソン政権で第8代国防長官を務めた。

生い立ち

1916年6月9日にカリフォルニア州サンフランシスコに誕生する。父は卸会社の販売マネージャーだった。カリフォルニア大学バークレー校経済学を専攻し、1937年に卒業した。副専攻として数学哲学も学んでいる。卒業後に1939年ハーバード大学ビジネススクールMBAを取得した。

サンフランシスコのプライス・ウォーターハウス社で会計士として働いたが、1940年8月にハーバード大学へ戻り、ビジネススクールで教鞭を執るようになった。大学では企業経営に用いるアナリティカル・アプローチを陸軍航空隊士官に教えていた。

陸軍時代

第二次世界大戦が勃発した後、1943年アメリカ陸軍航空軍へ入隊し、統計管理局で戦略爆撃の解析および立案の仕事に従事した。1945年ヨーロッパにおけるドイツの敗北が決定的になると、陸軍航空軍はヨーロッパ戦線で余っていた爆撃機ボーイングB-17を極東に転用し、日本への戦略爆撃に使用しようとした。

チャールズ・B・ソーントンを指揮官とするマクナマラら統計管理局の若手将校たちは、統計学を用いて徹底的に分析し、B-17を廃棄して新型の大型爆撃機のボーイングB-29大量生産し、対日戦に投入する方がコスト面で効率的であると主張した。彼らの意見は採用され、B-29を1944年末から開始された対日戦略爆撃に大量投入することで、大きな戦果を上げることとなった。

しかし東京大空襲をはじめとする日本の諸都市への一連の無差別爆撃に対する倫理性については、上官であるカーチス・ルメイに抗議しており、後の映画などのインタビューでも後悔の念を語っている。3年間の軍役の後に中佐として1946年に除隊した。

ウィズ・キッズ

第二次世界大戦後、ソーントンは統計管理局で共に働いた優秀な若手将校たちをまとめてビジネス界に売り込もうと考えた。ソーントンは当時ゼネラルモーターズに対して不利な立場に立たされていたフォード・モーターへチームを売り込み、マクナマラらは最高経営幹部候補生として採用された。

後に「ウィズ・キッズ(Whiz Kids/ 神童)」として知られるようになる彼らは、当時のアメリカの大企業では普通になっていた大学卒が経営陣にわずか10パーセントしかおらず、非効率がまかり通っていたフォードを大胆なリストラと不採算工場の閉鎖でコストを大幅に削減して効率性を高め、ヘンリー・フォード時代からの伝統に縛られた経営悪化に苦しむフォードを一変させ利益を拡大させた。

フォード時代の1950年代には「エドセル」投入という歴史に残る大失敗に関与したものの、その後はフォードの小型車第1号である「ファルコン」の投入を成功に導いた。これをもとに1960年11月9日マクナマラはフォード・モーターの社長に就任した。フォード一族以外の者が社長に就任するのはマクナマラが初めてだった。当時の部下にはその後フォードの社長とクライスラーの会長を務めるリー・アイアコッカがいる。

国防長官時代

マクナマラとケネディ

1960年アメリカ合衆国大統領選挙に勝利したジョン・F・ケネディは、前任のアイゼンハワーより国防政策の能力に欠けているとされていた。ケネディはエスタブリッシュメントの重鎮であるロバート・ロベットに主要閣僚への就任を要請した。ロベットは健康状態を理由にこれを辞退し、マクナマラを国防長官に推薦した

ケネディは義弟のサージェント・シュライバーを介して、社長就任から5週間しか経過していないマクナマラとコンタクトを取った。当初マクナマラは「自分は第2次世界大戦後の軍事事情に詳しくないので、国防長官は勤まらない」と要請を断ったが、ケネディは「大統領になるための学校だってない。けれどもアイゼンハワー大統領と会ったら、自分にも出来ると自信を持てた」と答え、マクナマラはワシントンの社交界に出入りしなくてよいこと、自分の部下は自分で選ぶことを条件として国防長官就任を受諾した。マクナマラは国防に関する最新知識をあまり持ち合わせていなかったが、直ぐにそれらの勉強を始め、自身の役割を把握し積極的な活動を始めた。

1961年3月28日に行われたケネディ大統領の議会への最初の一般教書演説において、マクナマラは国防政策の改革を盛り込むように提案した。その骨子は、十分な戦略兵器を配備することでアメリカおよび同盟国への核攻撃を思いとどまらせ、先制攻撃も辞さないとした。ケネディはそれを拒否し、アメリカ軍は文民統制下に常に置かれるべきで、国防体制は不合理な戦争や偶発的戦争の勃発の危険性を減らす方向で行かなければならないと考えていた。

1962年10月に起きたキューバ危機において、マクナマラはジョン・マコーンCIA長官マックスウェル・テイラー統合参謀本部議長ら強硬派と共にキューバへの先制攻撃(キューバ内のミサイル基地の破壊・キューバへの空襲・それに伴うキューバへの上陸の実施)を唱えていた一方で、キューバ周辺の公海上の封鎖とキューバに向かうソビエト連邦の船舶の海上査察を提案し、(後に海上査察という言葉はソ連との戦闘状態に突入していなかったので、海上臨検に置き換えられた。)これはケネディ大統領の承認を受けた。これは10月24日に実行に移され、ソビエト連邦の船舶との戦闘状態を起こす事無く海上封鎖と臨検に成功した。

また彼以上に強硬論を唱えるカーチス・ルメイ空軍参謀総長ジョージ・アンダーソン・ジュニア海軍作戦部長らを抑える事にも尽力した



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