私が古賀町久保西区にマイホームを建てたのは、昭和45年の夏であった。土地を購入したのは1年ほど前で、松林の状態の土地であった。
貝原益軒の筑前風土記には、古賀松原と花見松原は「当国八所松原の随一なり」と記載されているそうだ。
私のいた企業が戦時中にこの松原地区6万坪を疎開工場用地として取得していたが、疎開計画前に敗戦となり、昭和40年代に住宅公団の久保団地計画の土地となった。その一部を社員住宅土地として分けてもらったのである。
前の道路も舗装のない砂利道であった。
当時の幹線道路は、国道3号線が香椎バイパスとして、流れ交差点までが工事中で、昭和50年頃に宗像まで延長されて新3号線となった。同時に九州縦貫道の鳥栖・古賀間高速道路ができたが、北九州までは古賀でおりて、一般道路を走らねばならなかった。流や花見はしばらく交通渋滞の場所となった。
わが家の建築に入る直前に、松の木を伐採しているときに、隣接に、住宅公団による久保団地の造成がはじまり、わが家もその作業者に依頼して、1mほど地上げをしてもらった。
玄関まわりだけ数本のマツをのこしてもらい、自宅の植木としてのこした。
今年の古賀郷土史研究会で、吉住氏が発表された「古賀松原の現状」では、新宮町、福津市、宗像市、岡垣町などの松原は国や県の所有地が殆どだが、古賀市だけが私有地が多いそうだ。
その理由は、古賀地区の地質が、瓦の製造に適した粘土質のため、黒田藩の御用瓦製造地の代表の一つになっていたとの指摘された。
私は明治以降、鹿児島本線の経由地で、古賀駅が最も海岸線に近いため、住宅開発地となったこともあると思う。
また戦時中、砲台地や軍の造兵廠兵舎などが松林の中に作られ、その跡地が中学校として利用されたことなども、関連している。
しかし松原の整備や松くい虫対策などは、民有地でも、地主やボランティヤによる活動により、他の都市,町よりも良い状態だと田辺市長は明言していた。
防風林としての役目は、何とか保たれているのだろう。
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