2023年12月9日土曜日

玄洋社の人物

浦辺 登 氏 記事 


太宰府天満宮の「定遠館」を建てたのは、小野隆助という人物だった。幕末、福岡藩が募集した倒幕隊のひとつ「勇敢隊」の参謀だった。

この「勇敢隊」の隊長は博多の侠客大野仁平であった。福岡藩の下級武士から僧兵、農民まで、寄せ集めに近かったが、それだけに乱暴者ばかり。まさに、勇敢な集団だった。

 この小野隆助の父方の伯父が久留米水天宮宮司であった真木和泉であり、遠祖には小野東風、大宰大弐の小野好古がいる。さらに、小野妹子に連なる小野篁だった。この小野篁の末裔が佐藤守元空将だった。
 この小野隆助を調べているとき、玄洋社の社員とわかり、ここから玄洋社を詳しく調べることになった。
あの横綱千代の富士が結婚した相手は旧姓進藤さん。玄洋社の進藤喜平太翁の親戚とのことで、地元博多では「千代の富士さんは、ヨカとこから嫁さんば貰われた」という声を聞いたことがある。
 玄洋社の資料の中に、東京高輪泉岳寺に「殉節三烈士」のことが記してあった。それで、泉岳寺に出向いて「三烈士」碑を参拝しようと思った。
ところが、赤穂浪士の義士記念館を建設する際、邪魔になるというので檀家墓地に移されたという。「三烈士」の一人、山崎恙三郎も玄洋社員だった。それだけに、何か手がかりが得られないかと思い、ぜひとも参拝したかった。
 偶然、参拝がかなって、遺族末裔の方から電話もいただき、鐘崎三郎の資料も送られてきた。
その鐘崎三郎が、なぜ、上海にあった日清貿易研究所に入学し、日清戦争に従軍したのか。寺の修行僧として勤めていたのに、なぜ、そういった行動に出たのか、分からなかった。
 しかし、その発端は歴史教科書から意図的に抹消されているとしか思えない「長崎事件」だった。「長崎事件」は清国による日本の主権侵害事件だった。
現在の尖閣諸島、防空識別圏どころの騒ぎではない。

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