2023年12月9日土曜日

泉岳寺の歴史

wikipedia の 泉岳寺 概要

 慶長17年(1612年)に徳川家康外桜田桜田門周辺)の地に門庵宗関を招いて創建した寺院。

寛永18年(1641年)の寛永の大火で焼失したが、徳川家光の命で、長府毛利・笠間浅野・鹿沼朽木丹羽水谷の5大名により、現在の高輪の地で再建された。御手伝普請の大名は菩提寺とする事で徳川への忠誠を示す。




毛利綱元江戸で没したにもかかわらず、遺体を長府に送らせ赤穂義士との併葬を拒否。丹羽家は吉良義央子孫が藩主になる以前に泉岳寺と絶縁、水谷家は浅野長矩備中松山城を収公され旗本に転落後は使用していない。)

移転してきた当時の泉岳寺は、現在の三倍近い寺領を有し、学寮だけでも九棟あって二百人もの学僧修行していた。境内の壮大さは『江戸名所図会』の鳥観図で描かれている。

元禄14年(1701年)3月、松の廊下の刃傷により切腹した浅野長矩が、次いで元禄16年(1703年)2月、元禄赤穂事件赤穂義士が葬られた。

吉良邸に討ち入りした赤穂義士は47人だが、泉岳寺には48の墓がある。萱野三平重実は、大石の討ち入り計画に賛同していたが、父が再士官先をさがし契約したため、自決した。大石は彼を義士に加えていたからである。彼と間喜兵衛光延の遺骨は、遺族の意思で泉岳寺に埋葬されていない。

 長矩正室の瑤泉院(阿久里)、長矩実弟の浅野長広(浅野大学)、長広の代々子孫、大石家の墓所も当寺にある。

浅野大学家と大石大三郎家(小山流)、広島藩の大石別家(横田流)も断絶したが、瀬左衛門の家が赤穂藩(森家)大石宗家としてかつての主君や義士の祭祀を継承している。今も義士祭などに参加されている。

吉良の首、どうなつたか。
 泉岳寺には吉良の首の受け渡し状か、さりげなくかけてあるが、首は住職が、さらなる武闘を避けるため、上杉に返したという。

義士の討ち入り後、当時の住職・酬山が長矩の脇差(村正)や義士の所持品を売り払って収益を得たことに世間の批判が集まり、あわててこれらの品を買い戻しに走ったことがある。それでもなお大半の遺品が散佚し、21世紀になってから発見されたりする刀剣が続出している。

加えて、当該住職は怠惰で義士の墓所も放置してしまい、「泉岳寺の墓地には草が丈高く生い茂って、墓が並んでいるのも見えない」と同時代人の記録が残る。徳川吉宗の治世までは、江戸の墓参者が殆ど無かったと書かれている。「江戸開帳年表」にも1750年まで泉岳寺の記述は無い。

 江戸三座での歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』上演もあって、人が来るようになったので金銭を徴収することにし、金の無いものは門番が入れないようにした。

1752年宝暦2年)に赤穂義士の五十回忌の法要が営まれ、赤穂義士子孫で唯一富森正福富森正因の長男)が参列している(大石良恭も生存しているが参加した記録がない)。

また、江戸城で刃傷を受けた細川家との関係悪化により、寄進された梵鐘を鐘楼から除去し、のちに寺から放出した。(但し21世紀になって、細川重賢により処分された熊本藩邸の義士切腹地から欠けた皿が出土、細川綱利が義士墓に供えた遺品の可能性が指摘されている)。

文化3年(1806年)の丙寅の大火(泉岳寺大火)で高輪の薩摩藩邸が全焼、島津家との関係も悪化した。山号の萬松山は松平の松より(「松萬代に栄ゆる」の意)、寺号の泉岳寺は「源の泉、海岳に溢るる」と徳川(源氏長者)に由来するため、徳川家の力が弱まると毛利家も支藩の菩提寺使用を止めている。

1832年天保3年)、住職・貞鈞により山門が再建、天井に「銅彫大蟠龍」が嵌め込まれている。1836年(天保7年)には、梅庭和尚の勧進で中門が完成する(都史跡)。

幕末には高輪接遇所(英国公使館が泉岳寺の門前および境内にあったため、尊王攘夷の志士にしばしば攻撃された。攘夷の風潮の中、異国人を居住させたということで墓を杖や棒で殴打されるなどの被害が続き、浅野家以外の檀家であった大名の離去を招く

明治維新で、藩閥・反幕公卿の新政府(鍋島家も吉良の姻戚である)により荒廃を余儀なくされたが、住職・泰然は墓や義士像の周囲に柵(竹矢来)を設け、破壊から守った。それでも浅野長矩と瑶泉院(阿久里)の墓は法名の一部が破損した。

 1879年明治12年)、赤穂義士の百七十五回忌を開いた際には、東京帝国大学(旧東京大学)総長・加藤弘之から批判・弾圧された。

1891年明治24年)、『オッペケペー』で人気を博した川上音二郎は、赤穂義士の墓が荒れ果てているのを見て、貧者救済の名目で寄付をした。寺は「首洗いの井戸」を整備した。当初は井戸の後方に川上の墓が建っていたが、今は檀家墓地に移されている。

大正に入ると圓頓住職が荒れた墓地を整備、煉瓦造りの宝物館(現在の義士木像館に相当)を創設した。1916年(大正5年)には中央義士会が誕生、泉岳寺と連携して義挙の公布に勤める。

赤穂義士記念館建設ため、泉岳寺にある「殉節三烈士」の一人、鐘崎三郎の墓碑が、泉岳寺で檀家墓地の方に放り出されたままというのは、心苦しい。

1923年大正12年)、関東大震災により建物や墓が倒壊。1945年昭和20年)には東京大空襲によって本堂が焼失した。1953年(昭和28年)に本堂が再建される。

1989年平成元年)、「宿なし興道」の名で移動叢林した澤木興道の銅像が本堂前に建立された。 2001年平成13年)に赤穂義士記念館が装いも新たに落慶した。

2020年令和2年)、破損していた長矩と瑶泉院の墓の修復が完了した。


浦辺 登 氏 の記事

玄洋社の資料の中に、東京高輪泉岳寺に「殉節三烈士」のことが記してあった。それで、泉岳寺に出向いて「三烈士」碑を参拝しようと思った。
ところが、赤穂浪士の義士記念館を建設する際、邪魔になるというので檀家墓地に移されたという。「三烈士」の一人、山崎恙三郎も玄洋社員だった。それだけに、何か手がかりが得られないかと思い、ぜひとも参拝したかった。
 偶然、参拝がかなって、遺族末裔の方からの電話もいただいた。

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