徳川家康が掲げた「厭離穢土欣求浄土(おんりえど、ごんぐじょうど)」の旗印。
『どうする家康』で、松平元康が大樹寺で切腹しようとしたら、榊原康政こと小平太が「けがれたこの世を浄土とせよ」という意味ではないでしょうか、と解釈し、元康は切腹を思いとどまりました。その後の徳川家康は乱世を終わらせるべく戦いを続け、天正十八年八月(西暦1590年)、豊臣秀吉の命により領地を三河など先祖伝来の地から、江戸を中心とした関東に移しました。
そこで気になるのは、当時まだ小さい港町だった江戸(えど)が、「けがれたこの世」の穢土につながるのに、改称しなかった点です。
古来から根拠地とする地名の縁起が悪いと判断したら縁起を担いでめでたい地名に変えることが珍しくないです。
関東での政権は、鎌倉幕府の成立以来、西国政権が東国を一元支配した例は無く、古河公方の断絶とともに機能停止していた室町幕府の鎌倉府と同様の役割を、東国に通じた家康によって担わせようとした秀吉の考察でありました。
なお、小田原合戦中に秀吉が自らの「御座所」を江戸に設ける構想を示しており(「富岡文書」)、江戸城を家康の本拠地としたのも秀吉の積極的な意向が関与していたようです。
そこで徳川家康は江戸は江戸のままの名前で、壮大な江戸城を築き、山を切り崩し海を埋め立て大規模な城下町の整備を進めました。
家康の死後も江戸の町は拡大を続け、約百年後には人口百万を超える世界最大級の都市へと成長していました。
かつては「けがれた地」であった江戸を「この世の浄土」にしたい、という家康の思いがあったのかもしれません。
明治維新以後、江戸は東京に改名されました。そして大戦での焼け野が原から復興しましたが、首都の政治の中心は、政治資金の穢土とよべる状態も生じています。
戦争のない浄土など、地球上にはなく、あの世だけにあるのでしょう。
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