2021年4月3日土曜日

征韓論の詳細な解説

 今日のラジオで、征韓論の詳細な解説を聴いた。その概要は以下の通り。2018.4.3.

西郷と大久保、両者の意見は真っ向から衝突した。
西郷は、「朝鮮へ即時派兵するのではなく、先に公然と使節を派遣するのが筋道だ」との主張を行った。
大久保は、「使節の派遣は朝鮮との軋轢を生んで戦争に繋がり、現在の日本の国情を考えると得策ではない」と反論した。
最終的には西郷の主張が翌十月十五日に開かれた閣議で認められ、西郷は正式に朝鮮へ派遣する全権大使に任命されることになった。
しかしここで予想外の出来事が生じた。閣議の結果を天皇に奏上すべき太政大臣の三条が急病で倒れ、勅命によりその代理を務めた岩倉が、閣議での決定を完全に無視し、自らの使節派遣の反対意見を併せて天皇に奏上した。
 両方の意見を奏上するとは言え、奏上者の岩倉自体が使節派遣に反対しているのだから、実質的には反対意見を容れるよう進言したことになり、閣議で正式に認められたはずの西郷の朝鮮派遣は中止となった。
 この「明治六年の政変」と呼ばれる、いわゆる「征韓論」の論争は、大久保を中心とする「内治派(内政優先派)」と西郷を代表とする「外征派(海外出兵派)」との対立であったと一般に言われており、私もそう思っていたが、以上の経緯やその後の外交から考えると、そう簡単に解釈できるものではない。
 なぜならば、内政を優先させるのが第一として西郷の朝鮮使節の派遣論に反対した内治派の人々は、その後、明治七(一八七四)年に台湾を武力で征伐して中国と事を構え、さらに翌明治八(一八七五)年には、朝鮮の江華島において朝鮮側と武力衝突を引き起こし、修好条約を締結した。
 つまり、西郷の使節派遣に反対し、内政が優先であると主張した非征韓派と呼ばれた人たちが行ったのは、このような外征(海外派兵)だった。
この点から考えると、征韓論の論争における「外征派 対 内治派」という対立構図といわれたのは、西郷を追放するための、大久保たちの欺瞞に満ちたものであったことが分かる。


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