2021年4月14日水曜日

平凡社大百科事典と下中弥三郎

昭和初期の 小・中學校時代に、わが家にあった平凡社の大百科事典で、多くの知識を身につけた。戦後は同じ平凡社の世界大百科事典のほうが有名になっている。

平凡社は大きな出版社だと思っていたが、創業者の下中弥三郎は、大変な苦労人であり、しかも壮大な夢を追った人物であったことを、最近知った。

下中弥三郎の生涯:

1878年6月12日、兵庫県多紀郡今田村に生まれ、幼くして父を亡くし陶工となる。 

1898年神戸市雲中小学校代用教員となり、小学校準教員検定試験に合格。1902年に上京、『児童新聞』や『婦女新聞』の編輯に携わる。1910年中等教員検定試験教育科に合格し、1911年 - 1918年埼玉県師範学校の嘱託教師となる。

農本主義の影響を受け、1919年、啓明会を結成(翌1920年に日本教員組合啓明会と改称)。学習権、教育委員会制度、教員組合結成の促進を要求した「教育改造の四綱領」を発表。1923年、「教育の世紀社」を創立。1924年、「児童の村小学校」の設立に協力する。


その間、1914年には『ポケット顧問 や、此は便利だ』を発売するために平凡社を創設、1931年 - 1935年には『大百科事典』を出版して一躍「事典」出版社として著名になる。


1930年頃から国家主義国家社会主義)の立場に立ち、新日本国民同盟日本革新党などを創設。1940年には大政翼賛会の発足に協力、大日本興亜同盟の役員となる。

敗戦後、公職追放超古代史観犬塚惟重が会長・友人のオカルティスト三浦関造が副会長の日猶懇話会[1]の名誉会長を務め、仲木貞一小笠原孝次山根キクといった偽史関係者が集った。1951年、追放解除とともに再び平凡社社長に復帰。1955年世界平和アピール七人委員会を結成。1955年 - 1959年、『世界大百科事典』を出版。1957年、日本書籍出版協会初代会長。晩年は平和運動や世界連邦運動を推進した。1961年2月21日没。享年82。



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