2021年10月28日木曜日

安曇目(阿曇目)

 阿曇氏は早くより海人を支配しており,《日本書紀》に,応神天皇のとき,阿曇連(むらじ)の祖大浜宿禰(すくね)を遣わして諸所の海人の騒ぎを鎮めさせ,宿禰を〈海人之宰(海人の統率者)〉としたとあるのも,これまでの阿曇氏の立場が公認されたことを示すものであろう。

履中天皇のとき,阿曇浜子が住吉仲皇子(すみのえのなかつのみこ)の反に加担して黥刑(げいけい)に処されたので、入墨を阿曇目と称したという。



(以後しばらく顕著な活動を見なかったが,推古朝以後再び活動し始め,とくに阿曇比羅夫は半島問題に関係し,後に天智朝初年の百済救援の役には大将軍として水軍を率いて参加した。)

縄文時代から弥生時代までの倭人は、顔面に入れ墨をしていたことは、文献や土偶などから、知られている。



古墳時代以降になり、近畿地方だけ、急に入れ墨がなくなり、罪人のそのその証として入れ墨が行われれるようになった。

近畿地方のみ入れ墨なし。

近畿地方に、他民族が大勢侵入してきたか、この地方に新宗教が発生したか、おおきな文化的変化が起こった証拠である。

0 件のコメント:

コメントを投稿