今日は小早川秀秋の命日(慶長7年10月18日(1602年12月1日))。
秀吉の妻、高台院の兄の五男として、本能寺の変の年に生まれ、秀吉と高台院は養子として幼い頃から引き取り、羽柴秀秋として教育して育てた。
その後、秀頼が誕生したため、小早川隆景の養子にだされ、運命が変化した。
関ヶ原の戦いでは、西軍側に陣取ったが、裏切って大谷陣に攻撃をかけ、家康側の勝利に功績をあげた。彼一人の裏切りではなく、近くにいた脇坂・朽木・小川・赤座の四隊の軍も同時に裏切に加勢したという。
この功績により備前岡山の大所領を与えられたにもからわず、わづか2年後に秀秋は急死する(享年21)。
この早世に関して、大谷吉継が関ヶ原の合戦において自害する際、秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言って切腹し、この祟りによって狂乱して死亡に至ったという逸話も残されていれる。
実際に残されている病歴からは酒色(アルコール依存症)による内蔵疾患が死因として最有力とされる。
丹波亀山城主、筑前名島城主を経て、備前岡山藩主の短い人生であった。
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