2021年10月24日日曜日

エッフェル塔の建設秘話

 エッフェル塔の建設秘話のテレビをみた。公共の計画による建設と思っていたが、エッフェルが75%の資金も負担していたのに驚いた。あらためてかれの経歴をしらべてみた。

エッフェルの略歴(WIKの抜粋)
1832年12月15日一家の長男として、フランスのディジョンに生まれる。家系はフランス革命時にその姿を消した王室室内装飾業者で、彼はそれを誇りに思っていたと伝わる。10歳の時、教会と風車がある箱庭を一人で造り、その見事さに人々は驚いたと伝わる。
中等学校を優秀な成績で修了後、1850年パリに出てパリ大学に付属したコレージュ・サント=バルブ (Collège Sainte-Barbe) に学ぶ。1852年にエコール・デ・サントラル(中央工芸学校)化学科に入学。一年間の学業を終えて、中央工芸学校からの技師免状を取得する。
卒業後一時は義理の弟が経営する鉄鋼所に勤めた後、自らの今後を考えたすえ鉄道関係の仕事をすることになる。当時フランス全土に鉄道網建設の計画が進んでおり、鉄道に興味を覚えたとされている。
1856年、鉄道資材建造業シャルル・ネブザーと出会い、土木技術を修得する。ネブザーには目をかけられ、当時有名な科学者に次々と引き合わせてもらったという。
1858年〜1860年、7スパンの含む延長500mの大鉄橋ボーデラックスの橋梁工事でその工事のすべてを担当。圧送空気を用いた杭打機を使用して建設技術者として貴重な経験を得る。この工事の功績により、ポーエル社より個人名での商談を許されるようになる。
1862年マリー・ゴドレと結婚、5人の子をもうけた。1864年外部に個人商談用の技術コンサルタント事務所を発足させる。
まもなくヨーロッパをおそった経済危綬によってポーエル社工場は閉塞に陥る。
このため1866年ルヴァロア・ペレ(バリ市北西近郊)にサントラルの後輩で資産家T・セイリグをパートナーとして独立、エッフェル社を創業する。
独立後の仕事は、万博の展示場、駅舎ホール、チャペル構造、ガス工場、鉄道高架橋、可搬橋や可動橋、天文台の丸天井など多種の鉄骨造にわたり、ヨーロッパ各地はもとより中国や東南アジアまで広い範囲に及ぶ。
1875年にはハンガリーのペスト市終着駅とポルトガルのドウロ川にかかるマリア・ピア橋の工事を受注する。
1876年1月に着工し1877年11月には開通式を迎えたドゥロ河マリア・ピア鉄道高架橋(ポルトガル)は、全長353m、中央のアーチはスパン160m、ライズ37.5mの大鉄橋であり、当時つり橋を除けば世界一の長スパン橋梁ある。
1878年の万博パビリオンやアーチの長き110メートルのタルド河にかかるエヴオー高架橋(クルーズ県)を建設する。
1880年フランス・ガラビーの鉄道高架橋(フランス・カンタル県)はアーチスパンは165mで渓谷の底らは122.2m、輪脚の高さは89.64mである。
その他実績として工場、軍隊用組み立て式の橋梁などもある。
エッフェル塔(建設過程)
1884年、パリ万国博覧会においてシンボルとなる建物のコンペティションがおこなわれ、エッフェル社鉄骨構造物研究部長モーリス・ケクランと組立工法部部長エミーユ・ヌーギエらは1884年6月6日には塔の原案を作成し、建築部長ステファン・ソーヴェストルに相談する。図案にほ地面と第一プラットホーム(2階)との間に半円形の巨大なアーチがあったが、最終案は現在見られるように、アーチの役割は補助的なものとなり、全体に機能主義的構造になっていた。1884年9月18日エッフェル、ケクラン、ヌーギエの3人で鉄塔の新案特許(164364番)を登録し、同年9月27日、設計図はバリ装飾美術展に展示された。
1887年から1889年にかけて、革命百周年記念となるパリ万国博覧会のモニュメントとして、鉄骨による巨大な塔をシャン・ド・マルス公園北端のセーヌ河畔に建設することになる。これが有名なエッフェル塔である。完成当時は賛否両論だったが、今ではパリを代表するシンボルとなっている。
7月には仮契約が締結され、1889年3月31日を工期の期限とすること、20年後の1909年には塔をパリ市に引き渡すこと、および工期中に政府からの補助金150万フランが交付されることとなったが、これは予想される総工費650万フランの4分の1以下にすぎず、残りはエッフェル自身の金策によって調達されることとなった。1887年1月8日には本契約が締結された。エッフェル塔の入場料は上記契約により1909年まではエッフェル自身の収入となり、これによってエッフェル塔の建設費を返済していくこととなった。彼はその後、エッフェル塔を管理するための新会社を設立し、資本金の半分を自ら拠出した。
これらの資金は当時パナマ運河建設工事に伴う事業利益をあてたとされるが、のちに裁判沙汰となった。
また20年後にパリー市に引き渡し、解体される契約も、無線通信の実験場所となり、さらに軍の通信設備や電波放送の設備として利用されて今日にいたっている。
自由の女神像 (ニューヨーク)のも参加。
「世界を照らす自由の女神」-フレデリク・バルトルディの彫刻による自由の女神像は鉄の骨組みの上に銅をかぶせたもので、1884年パリで製作しアメリカへ贈られ、1886年ニューヨークで祝賀会が催された。
1889年にはパリの女神像も担当。また同年には民間技師協会の会長に就任。
その後パナマ事件で罰金つき有罪とされたが、最高裁判所で無罪となる。パナマ事件はパナマ運河建設をめぐる.第3共和制最大の政治・金融スキャンダルで1881年レセップスがパナマ運河建設に乗り出したが、1889年事業清算。この際におけるフランス政界への政治工作が問題化した。
エッフェルは建設業者として建設事業に参加し、事件に巻きこまれ起訴された。判決ほ懲役2年、罰金2万フランであったがエッフェルは控訴し、最高裁で無罪となる。
しかしこの事件は長く心の痛手となった。この時に、エッフェルは会社経営から身を引き、娘婿のアドルフ・サルと旧友モーリス・ケクランに経営を委ねる。
晩年はエッフェル塔の4階にサロンを設置し、ここで気象観測、天体観測、生物学的観測、無線逓信研究にいそしみ、これに当代一流の科学者が研究に参画した。
また彼は多くの経験の中で風に対する問題を認識していたが、1903年、70歳をすぎて改めて風の制御に関する研究にとりかかり、1909年エッフェル型と称される風洞を建設した。その後この風洞はパリオトゥイユに移され、本格的な風の研究が続けられる。風洞によって科学的な風の解析をはじめ風の科学が確立され、風の現象は視覚化された。これは当時実用化に向けでの開発の緒についた航空機の進歩に大きく貢献するものとなり、自身もついには.L.E(ラボラトワール・エッフェル)と名づけられた航空機の設計にまで手をかける。
妻には1877年に若くして先立たれ、続いて父、母を失ってはいたが、1920年に引退の後は孫たちに囲まれ、おだやかな晩年をすごした。
1923年12月27日にパリの自ら設計した自宅で死去。91歳。パリのルヴァロワ・ペレ墓地に眠っている。
1996年に発行されたエッフェル肖像200フラン紙幣の表にはガラビ橋、裏にはエッフェル塔が描かれている。

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