万里の長城は、秦の始皇帝が造ったもの思っていたが、昨日のテレビによると、その前から作られた部分があるようだ。
今から2500年以上前の中国は春秋戦国時代。このころ、中国各地はいくつもの国にわかれていた。そのうち、強力な7つの国が中国にでき、これを戦後の七雄とよんだ。
そのなかで、北方の遊牧民と国境を接する燕・趙・秦の3国は遊牧民に対抗するため、それぞれ独自に長城を建設し、繰り返される北方遊牧民の攻撃に備えていた。遊牧民に対抗して長城を建設する目的は遊牧民の機動力を封じ込めることである。
そのために、高さ2メートルほどの壁を建設し、侵入を遮った。このころの長城は泥と葦でつくれたもので現代の印象と全く異なるものであった。それでも機動力のハンデを補うことができるため、一定の効力はあった。
趙の長城は本来の趙の本拠地からはるかに北に離れた黄河の北岸から現在の河北省にかけて走っており、さらに黄河屈曲部の河套平原の北、陰山山脈の南麓にもう一本長城を建設していた。これは国土北部に広がる遊牧地帯への勢力拡張と、その先にある広大な可耕地である河套平原の確保を目的としていたとされる。
燕の長城は長大であり、現代の河北省北部から遼寧省を取り囲むように伸び、さらに鴨緑江を越えて朝鮮半島にまで伸びていた。この長城は戦国時代初期に燕が東胡を圧迫して得た遼西・遼東の新領土を確保するために建設されたものであり、建設時期としては各国長城の中で最も新しいものの一つであった。
その後秦が統一して、補強したり、その後漢の時代に西端の王門関まで延長され、その後に続く時代の国王が整備し、現在の長城は明の時代に東端の山海関まで完成した。
民の心が悦び服従していれば、国境も自ずから固まる。 |
いわば大衆の心が城そのものである。 |
武田信玄と同じような言葉である。人は石垣、人は城。
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