2021年7月6日火曜日

秦郁彦氏の大平洋戦争史

 お盆が近づくと、大平洋戦争史の話題がふえる。

秦郁彦氏
日本にはヒットラーのような強力な独裁者がいなかったため敗戦の責任者が不明確であり、評価する人によって多様である。実証史学の道を追求して、学生時代に東京裁判の被告たちへのヒヤリングを1年間もつづけたという秦郁彦氏の、多くの著書は、比較的に信用できそうだ。

昭和7年山口県生まれの現代史家(日本近現代史・軍事史)。1956年東京大学法学部卒業。同年大蔵省入省後、ハーバード大学、コロンビア大学留学、防衛研修所教官、大蔵省財政史室長、プリンストン大学客員教授、拓殖大学教授、千葉大学教授、日本大学教授を歴任。法学博士。
S6年柳条湖の満鉄線路爆破にはじまる満州事変の首謀者は石原莞爾だが、拡大には反対だった。
S7年1次上海事変の首謀者は田中隆吉で、内蒙分離工作にも加担していた。東京裁判では、司法取引でA級をまぬがれた。
S12年7月盧溝橋事件の第一発の犯人は中国側らしいが、中隊長は不明のまま会えなかった。
11月の南京事件の犠牲者は4万人前後と算定。
S16年の日米開戦の決意は陸軍の田中新一作戦部長、服部卓四郎作戦課長、辻政信班長のトリオの作戦が実施された。陸軍の仮想敵国はソ連だったので米国との戦略、戦術の知識はとぼしかった。S16.12月8日の開戦は、翌年の対ソ連戦発動の時期から逆算してきめたという。すでに6月に独軍がソ連攻撃を開始、日本にもソ連戦参加をもとめた。南方占領地の防衛は2師団で十分と考え、S17年秋には兵力の大半を満州にもどし、シベリアに打って出る作戦だった。真珠湾とマレー作戦の成功で有頂天になっていた夢は、8月の米軍ソロモン諸島侵攻で、夢物語ときえた。
慰安婦問題の発端となった吉田本などは、現地調査でデタラメと否定している。
もし東京裁判がなく、代りに日本人の手による国民裁判か軍法会議が開かれたと仮定した場合でも「刑法、陸軍刑法、戦時刑事特別法、陸軍懲罰令など適用すべき法律に不足はなかった」。東条英機は容疑対象としては関東軍参謀長だったS12年、独断で兵を動かしたとみられる件(チチハル・錦秋・ハルビンなどの出兵)やインパール作戦、サイパン防衛戦の失敗などがあげられるという。
秦郁彦氏の主張は筋が通っていて分かりやすい。連合国側が東京裁判を開かなかったとしても、当時の日本には戦争指導者の責任を問う法律は整っていたという指摘は重要だ。それらの法律に照らして戦争指導者の有罪が決まれば、彼は当然のことながら靖国神社に合祀する対象にはなり得なかったのであり、なまじ「東京裁判」という敵国人による裁判だったために、あたかも被害者であるかのような視線が注がれたのは、その後の日本にとって不幸な「道」を選択してしまったと言える。

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