2022年1月11日火曜日

八幡の名前と製鉄所の立地選定候補

 八幡製鉄所という名前が消え去るので、地区の教育委員会では、副読本でその名前を記録することにしたようだ。

歴史的には、黒崎、前田、尾倉、大蔵、枝光などの地名が古くからあり、八幡という地名はなかった。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、遠賀郡尾倉村(111戸)大蔵村(145戸)枝光村(109戸)が合併して八幡村が発足した。
村名の原案は三つの頭文字を並べたものだったが、郡役場から二文字に制限されて、尾倉村の豊山八幡神社、大蔵村の乳山八幡神社、枝光村の枝光八幡宮と、3村とも産土神八幡神を鎮守神としていたことから八幡村と命名された。

この地に官営八幡製鉄所が1897年(明治30年)に設立され1901年から操業が始まった。
北九州市の大合併で、八幡市は無くなり、八幡東区、八幡西区の名前はのこる。


現在の八幡市は、京都府にあり、エジソンが日本の竹で電球を試作した時に選んだ場所の記念碑で有名である。




明治時代の産業の世界遺産として八幡製鉄の名称は残るだろう。





製鐵所の立地候補は実は全国で17あった。

既に鑪(たたら)の炉を持っていた室蘭や釜石が筆頭候補であったが、鉄鋼石、石炭、触媒の石灰石を運ぶのが人力リソースに依存せざるを得ず、雪と氷と風に閉ざされる北海道・東北は年間を通しての安定生産には不適と脱落。
次いで、和歌山、尾道、呉、大竹、和歌山の候補地は、日英戦争に負けたあと、万一紀伊水道や関門海峡を封鎖されると鉄源材料や製品供給にもリスクを持つからという理由で瀬戸内は基本的に脱落、さらに①呉 ②板櫃 ③大里 ④八幡東の4箇所に絞られ、最終的には、門司の大里と八幡が候補となった。国内最大の筑豊炭田が近くにあることが背景にあった。

安川敬一郎達の政治工作で最終的に八幡に決したのであるが、実は最終選考に残った2ヶ所のうち第一候補は門司の大里だった。八幡は港が遠浅で不利だったからだ。



一旦 大里第一案で選定が進んだが、安川敬一郎氏らが石炭供給の有利さを訴え、港の浚渫を行うことを提案し、八幡村 芳賀村長が住民を説得し、ごぼう抜きの満塁逆転サヨナラ満塁ホームランで八幡に決した。

八幡案を推進した人物



北九州市の地区は、筑前と豊前にまたがっており、明治初期は福岡県と小倉県にわかれていた。
明治9年に合併して小倉県はなくなっている。




製鉄所誘致に活躍した彼らはすべて筑前黒田藩の出身者であり、もと豊前の門司よりも、もと筑前の八幡の繁栄を願っていた。もと豊前には政治活動できる大物がいなかったようだ。

敗戦後の復興により、若松市の白木市長の活躍で、若戸大橋が出来、さらに北九州市へと5市が大合併した。八幡市の名前は、八幡東区、八幡西区の区名に残った。


現在は八幡製鉄所の名前はなくなったが、旧製鉄所本事務所の建物などは、世界遺産として保存されている。この事務所には、わたしも共同研究などの業務会議でよくかよった場所なので、懐かしい思い出の場所であるい。

もと本事務所の建物


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