中洲は西のほうから東急ホテルの前の天神橋、それをこして那珂川に西大橋、そして玉屋と川端の間の博多川に東大橋。そこを電車が通り、電車道をはさんで北側の浜の方を"浜側"、陸の方を"陸側"(おかがわ)と言った。
明治時代になり、中洲には福岡病院(九州大学病院の前身)や博多電灯本社、福岡電話局などが開設される。
1874年(明治7年)には常設芝居小屋が設立され、明治30年代には次々と劇場が建てられた。
さらに1913年(大正2年)からは映画館が続々と立てられ、繁華街として発展。
1925年(大正14年)には玉屋デパートが開業。
1897年(明治30年)から券番(検番)が複数設立された。
大正時代の初期から都市化が進み、昭和モダンの影響でカフェやバーも増えていった。
中洲の積文館の西の川沿の一角に明治製菓博多店が昭和3年に開店した。
その楼上に、1934年(昭和9年)に開店した「ブラジレイロ」は文学サロンとなり、火野葦平、夢野久作、原田種夫らが足を運び、九州文学のグループの溜まり場となった。
1907年には与謝野鉄幹や北原白秋ら文学人5人が九州各地を旅行中、中洲の川丈旅館に宿泊。この時の紀行文は『五足の靴』として出版された。
西中洲の「九州文学碑」 |
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