2022年1月8日土曜日

東中洲と九州文学の歴史

 中洲は西のほうから東急ホテルの前の天神橋、それをこして那珂川に西大橋、そして玉屋と川端の間の博多川に東大橋。そこを電車が通り、電車道をはさんで北側の浜の方を"浜側"、陸の方を"陸側"(おかがわ)と言った。


現在の中洲(当時は東中洲と呼ばれた)の大半は18世紀半ばまで畑であり、福岡市制が始まる
1889年明治22年)までは那珂郡春吉村の一部であった。

明治時代になり、中洲には福岡病院(九州大学病院の前身)や博多電灯本社、福岡電話局などが開設される。

1874年(明治7年)には常設芝居小屋が設立され、明治30年代には次々と劇場が建てられた。

さらに1913年大正2年)からは映画館が続々と立てられ、繁華街として発展。

1925年(大正14年)には玉屋デパートが開業。

1897年(明治30年)から券番(検番)が複数設立された。

大正時代の初期から都市化が進み、昭和モダンの影響でカフェバーも増えていった。



中洲の積文館の西の川沿の一角に明治製菓博多店が昭和3年に開店した。



その楼上に、1934年昭和9年)に開店した「ブラジレイロ」は文学サロンとなり、火野葦平夢野久作、原田種夫らが足を運び、九州文学のグループの溜まり場となった。




1907年には与謝野鉄幹北原白秋ら文学人5人が九州各地を旅行中、中洲の川丈旅館に宿泊。この時の紀行文は『五足の靴』として出版された。



西中洲の「九州文学碑」



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