ミスター吉野ケ里と呼ばれる 高島忠平氏の経歴を見ると、下記のように書いてある。
福岡県立嘉穂高等学校卒業。
1964年に熊本大学法文学部文科東洋史専攻を卒業。
奈良国立文化財研究所を経て1974年より佐賀県教育委員会勤務。
1989年より行われた吉野ヶ里遺跡の発掘調査に際し、保存設備の計画・指揮をとる
吉野ヶ里遺跡保存対策室長に就任。
その後、佐賀県教育委員会副教育長、兼県立名護屋城博物館館長などを務めたのち公職を退任。
1999年より佐賀女子短期大学教授に就任し、2002年から2010年3月までは同短大学長を、退任後は同短大を運営する学校法人旭学園の理事長を務める。
九州出身ということは知っていたが、何故佐賀縣に転職されたのか?と思っていた。
それが、昨日義弟の話で、やっと解かった。
義弟は佐賀の神崎出身であり、地元の高校で歴史を学んだ時の教師が、忠平氏の父であったという。
そのころから、吉野ケ里は、何処を掘っても、いろんな古代の壺や刀剣などが出てくるから、おおきな遺跡が埋まっていると、話されていたという。
当然息子の忠平さんも、子どもの頃から、発掘に興味をもっていたのだろう。
吉野ケ里は、高島親子2代にわたる探求の場所であったのだ。
最近のニュースでは、新たに発掘調査が行われるようで、ここが邪馬台国であったと証明されるかもしれないという。
吉野ヶ里の謎のエリア |
R5.6.4.に発掘がはじまり、石棺の蓋があけられた。
今後中の副葬品の調査が行われるが、その解説TV番組には、高島忠平氏が出られた。
その後の調査の結果は、遺骨や鏡などの副葬品が何も出土しなかったのは、残念であった。
石棺の蓋石3個は、一枚の石を割ったものであり、その上には多くのマークがきざまれていた。
考古学者のほかに、天文学者が歓心をよせて、面白い意見をだしている。
一般的には、魔除けのしるしという説も強い。
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