筥崎宮の『敵國降伏』の扁額には長い歴史と意義が込められています。
鎌倉時代の亀山上皇の筆になり、その後小早川隆景の模擬複写になると言われ、いずれも蒙古支那の混乱と度重なる元寇来襲におけるヤマト軍(日本人)の勲功に対する慰労と賛辞を込めたものとされます。
「敵國降伏」とは何か。
文政元年(一八一八年)四月、幕末を代表する儒学者・頼山陽が福岡を訪れ、福岡の代表的儒学者・亀井昭陽の案内で筥崎宮に詣でた時のことです。
そびえ立つ楼門に掲げられた「敵國降伏」の額をふり仰いだ山陽は、「これは『敵國降伏』ではなく、『降伏敵國』でなければ文の意味が通じないのではないでしょうか」と昭陽に問いかけたといいます。確かに、敵国を降伏させるという意味であれば、漢文の語法上「降伏敵國」と「降伏」が「敵國」の上に来なければなりません。
それから五十年、時代は明治を迎えた頃、福岡が生んだ論客として全国に有名を轟かせた福本日南が代表的名著『筑前志』のなかで、山陽と昭陽のやりとりをとりあげ、山陽の疑問に答えるように「敵國降伏」の解釈を述べます。
「『敵國降伏』と『降伏敵國』とは自他の別あり。
敵國の降伏するは徳に由る、王者の業なり。
敵國を降伏するは力に由る。覇者の事なり。
『敵国降伏』而る後、初めて神威の赫赫、王者の蕩々を看る」
つまり、「敵国が降伏する(敵國降伏)」という場合の降伏は自動詞で、敵国が我が国の優れた徳の力により、おのずからに靡き、統一されるという「王道」の表現。
「敵国を降伏させる(降伏敵國)」での降伏とは他動的で武力で天下を統一するという覇道(覇者の道)の表現。
「敵国降伏」とは日本の優れた国柄が示されていると述べたのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿