大河ドラマの影響で、明智光秀の若いころの話がマスコミの話題になっている。
清和源氏の土岐氏支流である明智氏に生まれたのが通説だが、
享禄元年(1528年)説、と『当代記』による永正13年(1516年)説の2説がある。
父親の名前も4名ほど候補があるが、正確な名が伝わらない低い身分の土岐支流だった。
「米田文書」に含まれる『針薬方』が光秀の史料上の初見であり、これは2014年に熊本藩細川家の家臣で医者だった米田貞能の、熊本市にある子孫の自宅で発見された医学書で、医者だったことと、細川家と関係があったことがわかる。
昨日の読売新聞に、磯田道史さんが、「光秀を歴史をかえるモンスターにしたのは、細川藤孝だった。」とかいていた。
藤孝は主君足利義輝が三好に殺され、自分の領地も奪われので、弟の義輝を救出し、信長の援助を求める交渉役に、光秀を選んだ。
義昭も織田信長を含む各地の武将に上洛と自身の将軍擁立を促すため、最初は細川藤孝を使者とし、信長も了承したが、義昭が信長に不信を募らせて、いったん見切りをつけ、さらに各地に援助を求め朝倉義景を頼ったが義景は動かない。
光秀は「義景は頼りにならないが、信長は頼りがいのある男だ」と信長を勧め、そこで義昭は永禄11年6月23日(1568)信長に対し、上洛して自分を征夷大将軍につけるよう、前回の破綻を踏まえて今回は光秀を通じて要請した。
2回目の使者が、信長への仲介者として光秀が史料にまとまった形で初めて登場する。
光秀は知識・交渉力・調査力・野心と人を信用させる力があった。
この記事に「光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされ、信長の正室である濃姫(道三娘)が光秀の従兄妹であった可能性があり、その縁を頼ったとも指摘されている。
そんな光秀だから、一旦信長の元に行くと、信長の直属の家来を希望し、細川家には戻らなかった。
NHKの予告番組では、細川は出てこなかったようだ。
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