三国志には群将が登場するが、関羽(关羽)もその1人である。
中国土産で買った三国志群将の人形 |
物語は劉備が赤壁の戦で勝利し、蜀の國を確立して、三国の計を実現したあとの時代である。蜀と呉の境界争いがつづいた。
孫権との衝突
建安20年(215年)孫の権の命令で呂蒙らが長沙・桂陽・零陵の三郡を襲撃すると、呂蒙の謀略により郝普は呉に降伏した。
それをうけて関羽は3万の兵を指揮して益陽に布陣。劉備も自ら大軍の指揮を執って関羽の助勢に駆けつけ、一時は劉・孫同盟の崩壊の危機に至った。
さらにこの年、曹操が自ら大軍の指揮を執って漢中の張魯を攻撃したことなど、これらが両陣営に和平の機運をもたらし、関羽と魯粛の対談が実現した。
建安22年(217年)の魯粛の死後、陸口に赴任した呂蒙は、関羽を警戒する計画をひそかにめぐらしていたが、しかし、関羽の荊州での統治ぶりは恩徳と威信がよく行き渡っていたため、なかなか機会を得ることができなかった。
あるとき、孫権から関羽に対し、関羽の娘に、孫権の子との婚姻の申し入れがあった時、関羽はこれを断り、孫権を怒らせた。
樊城の戦い
建安23年(218年)関羽ら群臣らが劉備を漢中王に推挙した。劉備が漢中王を称するようになると、関羽は前将軍・仮節鉞に任じられた。
同年、子の関平・都督の趙累らと共に樊城を守る曹仁を攻撃した。曹仁の援軍として、七軍の指揮を執っていた于禁が駆けつけたが、折からの悪天候により大洪水が起こり、七軍は水没した。
関羽は船団を指揮して攻撃をかけ、于禁と彼が指揮を執っていた3万の兵を降伏させ、さらに樊城の北に駐屯していた龐徳を斬った。
また、このとき荊州刺史の胡修・南郷太守の傅方らが関羽に降っている。
関羽は樊城を完全に包囲し、別将を派遣して呂常が守る襄陽までも包囲した。
さらに関羽は方々に印綬をばら撒き、梁・郟・陸渾といった曹操領内の群盗などが一斉に蜂起し、中原は震動した。
曹操はこの事態に狼狽し遷都まで考えるほどであったが、曹操の配下の司馬懿と蔣済は于禁を弁護し、これ以前に和議を結んでいた孫権を利用して、長江南を領有することを条件に関羽を背後から攻撃させる策を提案し、曹操は孫権と密約を結んだ。その一方で、徐晃を派遣して曹仁を救援させた。
これにより関羽は、逆に曹・孫両軍に挟撃されてしまうことになる。曹操の配下の董昭は曹操に「樊城の将兵の士気を高めるためと、関羽の我が軍への戦意を喪失させるために、孫権が殿と同盟を結び関羽の背後を攻めることを、樊城の我が軍と関羽に漏らすべきです」と提案した。曹操はこの提案に従い、徐晃を介して樊城の曹操軍と関羽軍に孫権参戦の情報を伝えさせた。この情報を聞いた樊城の曹操軍の士気は大いに上がった。
関羽は孫権への備えを当初はおこたらず、長江沿いに守備兵を置いていたが、呂蒙が病気と称して前線を離れたこと、さらに後任として陸口に派遣されてきた陸遜の謙った手紙にあっさり煽てられ警戒を解き、江陵・公安からさらに兵・物資を前線に送ってしまったという。
孫権は呂蒙・陸遜らに命じて関羽への攻撃を開始した。劉備は糜芳に南郡を、士仁に公安を守備させていたが、両者は関羽との仲に隙があり、其処に着目した呂蒙は両者に誘いをかけ寝返らせ、関羽の拠点たる江陵・公安を奪った。その後も陸遜らの働きで荊州の劉備領は次々に攻略されていった。
関羽は襄陽・樊城を落とせぬまま、徐晃に攻撃を受けて敗れ樊城の包囲を解いた。
その後、孫権は関羽軍の輜重を奪ったが、それを聞いた関羽は襄陽の包囲も解き、撤退した関羽は、使者を何度も呂蒙の元に送り連絡をとろうとしたが、呂蒙はそのたびごとに関羽や関羽の部下の妻子たちを捕虜にして厚遇していることをわざと使者に知らせた。使者の口からこのことを知った関羽の部下たちは敵対心を失って、やがて関羽の軍は四散し、大半の将兵が孫権軍に降伏した。
関羽は当陽まで引き返したのち、孫権が江陵に自ら軍を率いてきていることを知り、西の麦城に逃走した 。
孫権から降伏を勧告する使者が派遣されてくると、関羽は降伏を受けるふりをして逃走した。しかし219年12月、臨沮において関羽は関平らと共に退路を断たれ、捕虜となり斬首された。
関羽の死後
群雄・関羽の首級は、孫権の使者によって曹操の下へ送られ、孫権は諸侯の礼を以て当陽に彼の死体を葬った。一方、曹操も諸侯の礼を以て洛陽に彼の首級を葬った。
章武2年(222年)、関羽を殺された劉備は孫権に対して夷陵の戦いを起こしたが大敗を喫した。
景耀3年(260年)、蜀漢の2代皇帝劉禅より壮繆侯(または壮穆侯)の爵諡を送られた。
関羽の子孫は蜀漢の列侯の1人として続いたが、炎興元年(263年)に鍾会らにより蜀が滅んだ際、龐徳の子であった龐会が関羽の一族を皆殺しにしたという。
ただし、王隠の『蜀記』は非常に創作された逸話が多く、蜀臣の陳寿、蜀臣の孫である常璩も関羽の一族が皆殺しにされたという話は史書に残していない。
『宋書』に登場する河東郡の関康之や唐代の宰相関播は関羽の後裔とされる。
唐代には、武廟六十四将に唐朝以前の中国史を代表する64人の名将として、蜀漢から張飛と共に祀られている。
現在、関羽62代目の子孫を名乗る関新剛なる人物が中国に在住するが、関羽の子孫かどうか実際の所は不明である。
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