2022年1月9日日曜日

終戦75年記念(改訂:追記)

2020年 : 終戦75年

 今年は有名な俳優、三船敏郎、原節子の生誕100年らしい。何か記念行事が行われるだろう。

さらに大きな記念行事は終戦75年の行事だが、東京オリンピックの時期と重なり、かすんでしまいそうだ。

古賀歴史資料館では、75年記念で、展示会の計画があると聞いて、私の手元にある資料を何点か持って出かけ、提出した。

さらに部屋掃除をして、2,3の資料がみつかったので、追加提供したいと思っている。

戦時中は皇居も荒れが激しく、地方から皇居奉仕隊が清掃にでかけた。母が福岡県の奉仕隊で出かけた時の記念写真。
背景に宮内庁の建物が見える。





2022.3.(第1刷)66頁

聞き取り8:藤野義一(軍事教練・学徒動員)


戦争体験記:藤野提供は、傘寿の歩記録と大地と海

その他思い出した記念資料写真:








長崎原爆の悲劇




長崎原爆記念館のラジオゾンデ


私のラジオゾンデ調査体験




軍事教練で使用した三八銃(実弾射撃も体験)


焼夷弾:わが家の庭にも落ちた

従兄の出征記念写真(前列右端が私)


叔父の戦死箇所の墓

叔父の戦死地点での遺品


英霊も眠る仏壇

戦後70年の新聞記事で思い出したのは、「対戦車戦闘訓練」のこと。
S20年の大学生の教練は月1回くらいで、中学や高校のように武器庫もない。11月からの米軍九州上陸作戦に備えて、座布団爆弾を戦車のキャタビラの下に投げこむ自爆訓練。
2mくらいの竹竿のさきに小形座布団をつけて、塹壕のなかからとびだす練習であった。
名簿順ですか?いろは順になりませんか?と秋吉くんがいうと、どちらでも俺は早い順番だと今任くんが最初にとびだしたのを憶えている。みな死を覚悟しての半分遊び感覚の教練であった。

8月15日の終戦玉音放送のあと、西部軍将校が数名、大学にきた。みな大学卒OBの将校で、以前にも数回きたことのある顔である。
軍需用備蓄食料を米軍にとられる前に、福岡市民に配給するので、明日の夜手伝ってくれという。17日の夜、板付飛行場近くの倉庫からトラック1台に荷物をつんで、主に博多区の町内会を一晩中、配給してまわったのを覚えている。苦労賃にミルク缶をひとつもらった。


しかし、終戦78年記念の現在、ウクライナでの戦争をみると、太平洋戦争の時代とはことなり、銃撃戦や航空機による爆撃戦よりも、ミサイルや無人ドローンなどの攻撃が中心になり、宇宙戦の技術の戦いになっている。その背景には、デジタル技術の進歩により、国際的な衛星通信技術や情報網での戦になっている。
庶民は、なすべき手段を持たないで、ただ避難の道をさぐるだけの時代のようだ。


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