九州大学の栗原俊彦らは,1964年に仮名漢字方式に関する特許を出願し、黒崎と連名で論文も発表したのは、昭和42年頃である。
仮名文を分節分かち書きで入力し,単語辞書による照合,構文解析,意味解析など,仮名漢字変換に基礎的な手法を提案した.
これが今日の仮名漢字変換方式の最初と言われる.
1966年 「カナ漢字変換について(第1報)」栗原俊彦 黒崎悦明 小西彬允
自然言語処理の応用としての仮名漢字変換の初出資料である。「仮名漢字変換」という名称で先行している論文は皆無であり、この論文が初出である。これ以後、九州大学の栗原研では、1975年までかな漢字変換の研究が続く。
これをベースに,沖電気の黒崎悦明らは,1967年に仮名漢字変換試作システムを試作したが、発売には至らなかった。
1970年代に入ると,大学や企業の研究所で実用化のための研究開発が行われた.
1971年に東芝は,京大の指導のもとに,日本語構文解析の研究を開始した.
当時、かな漢字変換の研究は一部の学者のみが行っているという程度であり、参考となる資料もほとんどなかった。
当時の九州大学工学部の教授である栗原俊彦はこの研究を行っていたが、彼は沖電気と共同でこの研究を行っており、東芝のリーダー森健一は栗原の協力を得ることはできなかった。
そこで、森は九州大学工学部出身の新入社員である河田勉を、当時京都大学助教授だった長尾真のもとへ1年間国内留学(研究生)させた。長尾はコンピュータによる日本語の構文解析の研究を行っており、河田にはそこで形態素解析の研究を行なわせた。
東芝は,仮名漢字変換の研究の成果を用いて,日本語ワードプロセッサJW-10を1978年9月に発表した.
同年10月のデータショウでこれを一般公開し,翌年2月より出荷した.価格は630万円であった.
1979年5月には,沖電気が1字単位で漢字を入力する表示選択式OKI WORD EDITOR-200を発表した.
1980年5月には,富士通が親指シフトキーボードを用いた単語単位表示選択式OASYS 100を,NECが全文字配列タブレット方式NWP-20を発表し,日立は2ストローク方式のBW-20を発表した.
さらに,1980年12月にキヤノン,1981年5月にリコー,松下電器,カシオ計算機が発表した.
1982年に入ると,三洋電機,富士ゼロックス,横河電機が参入し,その後も電機メーカ,事務機メーカなどからワード・プロセッサが発表された.
当初,各社の日本語ワードプロセッサにさまざまな方式が用いられていた.この後,各社で自然言語処理の研究が進み,仮名漢字変換入力に統一されていった.
これらのワープロの歴史を調べるときに、九州大学の栗原俊彦の名前が現在では殆ど出てこない。彼が早世したことと、メーカーの開発の渦のなかに埋もれてしまったからである。
彼の3年後輩として、そのユニークな人生を紹介しよう。
1)学生時代:
栗原は1922年3月に福岡県直方市で生まれた。両親が旧制中学の数学教師という家庭環境で、とくに母は奈良女子高等師範出のきれる人だった。生まれてまもなく、父が熊本第一高女の教頭として赴任し、一家は熊本に引っ越した。
頑固で議論好きな、肥後もっこすの栗原が育った。彼が夢中になったのは、数学の問題作りで、教科書より難しい問題を作っては、教師に渡して、その反応を楽しんでいた。
逆に国語は不得意だったので、旧制高校は五高に行かず佐賀高を選んだ。
九大電気工学に入学したのは、昭和17年であった。理系のため徴兵はなかったが、19年末から学徒動員で、広島の高等工業学校に派遣された。軍の各種数学計算をする部隊であり、記号論理学による計算なども学んだという。
1年先輩の田町などは、佐世保の工場で肉体労働だけしたというから、栗原は恵まれた動員であった。
しかし、8月の原爆の爆風で、裂傷と火傷を負ってしまう。敗戦後傷も治り復学して、21年に大学院(特別研究生)に進む。当時は敗戦後の就職なんで、特別研究生志望者も多かった。
若かったので、「必要ない」と、原爆手帳もことわり、元気に過ごしていたが、50歳で心筋梗塞を起こし、研究途中でなくなった。同期の安浦も同じ動員先で原爆での外傷はなかったが、同僚として共に働き、62歳でなくなった。
2)私と先輩たちとの縁
九大電気工学科は、電気材料、回路理論、発送電、電気機械、電信電話などの教授が講座をもっていたが、昭和20年に、電気と通信の2学科となり、その後、電気と電子の2学科に再編され、さらに情報が追加されるなど昭和は激動の時代であった。
栗原の5年先輩に大野、1年先輩に田町、同期に安浦などがいた。この3人は私の旧制福岡高校の先輩であり、栗原の研究を援助した仲間である。
私が昭和20年に入学した頃、大野はすでに講師で電磁気の講義をうけたが、あとの3人はまだ特別研究生で、たまに顔を見るくらいであった。
栗原研との直接の縁は、昭和43年頃安川電機の研究所長時代に、新入社員の日高達君を社員のまま栗原研の修士課程に入学させ、ロボット言語などの基礎を学ばせたことからはじまる。
修士過程終了後、日高君は復職したが、数年後栗原研に呼び戻され、栗原教授の最後の弟子となった。栗原の下で長く助手をつとめる人物が少なかったようだ。
また私が古賀市に住宅を建てた昭和45年ころ、隣の家庭の娘さんが、栗原研のいわゆる栗原女学校の一員として、言語整理、分類などの業務を担当されていた。
そういう縁で栗原研には、数回お邪魔したことがある。
田町、安浦両氏は電気学会にも所属されていたし、安浦氏氏は、私の前の支部長だったので、会合で昔話などをしたことがある。
3)栗原の研究開発
栗原は真空管の研究などからスタートしたが、当時アメリカで真空管式電子計算機の開発が成功しており、弾道計算に使われていた。そしてその応用が今後の大きなテーマとされていた。
九大では、日英独の翻訳機と、そのための言語処理機などが研究の対象として論じられた。
まずノイマン型コンピューターの小型試作品などをつくり、内容の勉強を進めたが、大型を作る予算がなく、それよりも応用の対象を選ぶことに注目し、翻訳機やワードプロセッサーの研究を対象にしていた。
小型試作による日英独機械翻訳機の試作は数年後の昭和35年に完成した。
Kyusyu Translator-1(KT-1) と命名されたが、栗原・田町の略じゃないかと言われた。当時の翻訳機としては、電気試験所の「やまと」が日英の翻訳機で唯一だった。
KT-1は、「やまと」より1年後の完成だった。
その後ワープロの研究に専念しはじめたが、難航した。
前述のように、沖電気との共同研究の話が持ち上がったのは、そのころである。
当時、沖電気の関常務から、「本社と各支店の間をテレタイプで結んでいるが、カナやローマ字を自動的に漢字かな交じり文に変換出来ないか」という話が持ち込まれた。
これは海外とのテレックス通信にも応用できる話である。これくらいなら、当時のコンピュータでも人間より早く出来るはずであった。
栗原は、翻訳機の経験から、ワープロも比較的に容易に実現できると考えていたが、それは誤りであった。
日本語の問題点は多々あり、文法、品詞の分類、自立語と付属語
、同音異語、意味処理などが複雑にからみあっているからである。
栗原はまずコンピューター上に、機械辞書を作りはじめ、S40年からS46年までに、六万語をつくった。
市販の国語辞典が役に立たない。小学校、次長などが載っていない。文化、分化に動詞を付けるときの区別情報がないなど多くの問題にぶっつかった。
栗原研には、資料収集、整理のために50名近い女学生がいたので、栗原女學校というあだ名がついた。
工学部の学者がどうして国語学者の真似事をするのだ、という批判もあった。
そのため研究予算の獲得への苦労も多かった。欧米で研究されていることにはすぐ予算がつくが、日本人にしか意味のない日本語ワープロは予算が付きにくかった。
同じ苦労を共同研究を終えて沖電気にもどった黒崎も味わった。昭和42年に通産省の予算で、ワープロの原型といえる「仮名鍵盤漢字表示装置」を試作し、実験結果を43年に学会発表した。
しかし社内の幹部も代わっており、高価なコンピュータを使うのは馬鹿げていると評価され、湾岸レーダーシステムの開発の仕事に回された。
そこで東芝の森が、最大のライバルと思っていた沖電気が消えて、一番乗りを果たすことができたのであった。
メーカーの製品が出始めると、栗原の研究テーマは、コンピュータにより高度な知識を持たせる方向に邁進する。「人間の思考能力を持たせるのだ」というのが、彼の口ぐせとなっていた。
現在の人工知能で問題になっている多くの分野に、手をつけていたようだ。この頃の栗原の論文は難解で漠然としたイメージが伝わるだけのものが多いようだ。
そして50歳の正月4日、仕事はじめの日、大学内で先輩の大野の部屋に年始の挨拶に訪れた。挨拶のあと雑談をしている最中に大野の目の前で、栗原は心筋梗塞の発作を起こし、倒れてしまった。
すぐ九大付属病院につれていき、入院させた。しばらくして病状が安定し、いったんは安心したと大野はいう。
「もう大丈夫だろう」と、夫人を残して全員が帰ったが、そのあと容態が悪化し、午後9時頃仮死状態になり、医師たちがあらゆる手立てを尽くしたが11時に亡くなった。
最後の弟子の日高は、この日神戸に出かけていた。連絡をうけて飛んで帰り、病院にかけつけた。「栗原先生の病室はどこですか」と尋ねると、霊安室ですという。変わった部屋にいるな。栗原先生らしいと、その時は思ったという。
4)評価の言葉
猪突猛進 頑固一徹 奇人、変人、そして天才 衝動買い 偏食
独創性にこだわる 世事にうとい 世俗のことに無頓着 議論好き
傍若無人 ヘビースモーカー 服装に無頓着 九大一汚い男
などなど。江戸時の平賀源内も似たような評価で、享年52歳。
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