2021年9月8日水曜日

世界遺産のペトラ遺跡(改訂)

 昨日はまた世界遺産のペトラ遺跡を作ったナバテア人の歴史がテレビで詳しく紹介された。


この中東の砂漠地帯は、アフリカ大陸に発生した大地溝帯の一部で、大きな渓谷と砂漠の地区であった。ペトラとは、ギリシャ語で岩の意味である。

大地溝帯
紀元前1世紀ごろから、エドム人達を南へ追いやったナバテア人達が居住しはじめる。


ナバテア人は南アラビア地区との乳香や没薬の貿易を独占。それにともない岩山に囲まれた要塞のペトラも、ナバテア人の有力都市として栄え、ナバテア王朝が成立した。



また近くの死海で採取できる接着剤や防腐剤用のアスファルト(れき青)が貴重品であり、紅海と地中海の間の交易ルートとして富を蓄えて繁栄し、大きな宮殿、神殿、劇場や宝物殿などが、砂岩の渓谷内に構築された。。
紀元前64年ごろ、ナバテア王はローマの将軍、ポンペイウスによりその支配下におかれ、自治は認めたものの税を課し、また砂漠から進入してくる異民族の緩衝地帯とされた。
そこに、長距離の水路や多数の雨水の貯水槽が作られ、ローマ風の建築物の造営がこのころ始まった。
紀元後1世紀の初期には、ナバテア王であったアレタスが隣接するペレアの領主ヘロデと仲が悪く何度も争い事があり、最後はアレタスが勝利したものの、宗主国であるローマ帝国が割って入り、戦を仕掛けたアレタスに問題があるとして処刑した。

紀元後105年に、ローマ皇帝トラヤヌスが反乱を起こしたペトラを降伏させ、106年には、ペトラとナバテア人はローマのアラビア属州として完全に組込まれた。
363年、ガリラヤ地震 (363年)が発生し、多くの建物が崩壊し、水路網が破壊されるなどの被害が生じた。
663年、イスラム帝国によってこの地域が征服され、ペトラが主要通商路から外れると、ペトラは次第に衰退していった。
ペトラ遺跡は有名だが、ナバテア王家は小国で寿命も300年くらいと短かったため、一般の世界史の図書には記載されていないことも多いが、周辺の大國との功名な交渉経緯は、参考になるものである。
ペトラ遺跡

宝物殿

大神殿跡


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