山田寺の開基である蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏の一族に属し、蘇我馬子は祖父、蘇我蝦夷は伯父、蘇我入鹿は従兄弟にあたる。
石川麻呂は蘇我氏の一族でありながら蝦夷、入鹿らの蘇我氏本宗家とは敵対しており、中大兄皇子(葛城皇子、後の天智天皇)、中臣鎌足らの反蘇我勢力と共謀して、皇極天皇4年(645年)に起きた乙巳の変(蘇我入鹿暗殺事件)に加担した。
乙巳の変後に発足した新政権では、石川麻呂は右大臣に任ぜられた。
『日本書紀』によれば、乙巳の変の4年後の大化5年(649年)、石川麻呂の異母弟・蘇我日向は、石川麻呂に謀反の志があると中大兄皇子に密告した。
そして、石川麻呂のもとへは孝徳天皇の軍勢が差し向けられた。石川麻呂は抗戦せず、一族とともに山田寺仏殿前で自害した。
石川麻呂は無実であり冤罪であったとされるが、事件の真相については諸説ある。
遺跡の配置模型 |
坪井清足氏 |
坪井清足氏は、1921年生まれ、1934年4月、大阪大倉商業学校(現:関西大倉中学校・高等学校)に入学。この頃、梵鐘研究家であった父について各地の遺跡巡りをする。
1941年京都帝国大学文学部に入学し、1943年に召集。1946年3月に復員。復学し、1949年に京都大学大学院に進学。
1950年から平安中学校・高等学校に勤務し、1955年に奈良国立文化財研究所に入所。
昭和30年代に、山田寺遺跡の全面発掘調査を行い、伽藍配置や、回廊の一部が倒壊して埋蔵されていたのを、無傷に近い状態で発掘されたのが有名である。
1977年からは奈良国立文化財研究所長となり、1986年に奈良国立文化財研究所長を退官。
1986年から2000年まで財団法人大阪文化財センター理事長、また2000年から、財団法人元興寺文化財研究所副理事長を務め、同所所長・理事長を務めていた、考古学の大家である。
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