中国で単に”河”と書いたときは黄河を表すらしい。
黄河は全長約5,500km、揚子江に次いで2番目(世界6位)の長さを誇る。
現在、バヤンカラ山脈の源流から、チベット高原、黄河屈曲部(Ordos Loop)、華北平原(中原)の三つの地理的地域を流れ渤海へと注いでいる。
黄河の下流域・中原は、中国文明発祥の地。
夏王朝、商(殷)王朝、そして周王朝歴代の王都(大邑・たいゆう)が築かれてきた。
中国古代の歴史書に様々な邑名(都・町名)が出てくる。
幾多の遷都・戦いの記録が残っているが、よく出てくる地理情報が邑名と河(川)の名前だ。
これら情報の中で黄河とその支流位置は貴重な地理情報である。
しかし、現代の地図に書かれている黄河を見ても古の邑名位置は定かでない。
それは、「黄河の川筋は現在と古代中国では大きく異っていた」からだ。
その原因は、黄河の中流域の黄土台地から運ばれてくる黄土(主含有物は炭酸カルシウムで緩く結合されたシルトからなる重い浸食性土)による。
黄河は年間16億トンという黄土を河口へ運び広大な三角州(デルタ地帯)を形成してきた。
黄河の川道変遷と過去の海岸線(筆者イラスト)
今から4,300年前(およそ紀元前2,300年から紀元前602年迄)は、黄河は赤色で示した付近(上図)を流れていた。
すなわち、鄭州を過ぎるあたりから、川筋を北に向け渤海(赤色の海岸線)に注いでいた。
当時の渤海(オレンジ色)は今よりずっと広く、中国の現在の都、保定や天津は古代中国では遠浅の海であったことが分かる。
その後、黄河に運ばれた黄土が幾度となく氾濫・沖積を繰り返し、現在の渤海の海岸線(黒色)が形成された。
高低差の少ない中原では一旦河が決壊すると甚大な被害を与えてきた。
古代中国より、黄河の氾濫を収める治水工事は重要であり、禹のような賢人による治水事業が夏王朝以来数多く歴史書に記載されてきた。
しかし、堤防が完成してもなお、年々川床に堆積する黄土により川床が高くなり(天井川)、水の流れが緩やかになり、急激に水流が増すと、容易に堤防が決壊し、河川の流れを変えることになった。
紀元前602年から紀元後11年迄は濃紺色の場所を黄河は流れていた。
1,324年から1,853年は紫色。
その後、揚子江に流れこんでいた時期もあった。
そして現在の黄河は水色で示した位置を流れている。
鄭州から東側の広大な土地は、黄河が運んできた黄土と沖積土によって形成されたことが分かる。
詳細は、オックスフォード大学東洋研究所のキャロリーン・ブランデン(Caroline Blunden)とマーク・エルヴィン(Mark Elvin)の著書『図説 世界文化地理大百科 中国(Cultural Atlas of CHINA)』朝倉書店・1998年6月25日初版・ISBN 4-254-16597-8 C 3325に、詳しい図(黄河の年代別10水路)が纏められている。
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