2021年6月15日火曜日

真珠湾攻撃と日付変更線

1941年の 真珠湾攻撃の日本艦隊航路をみると、12月の初めからミッドウエイやハワイの北方を航海していたようだ。

現在ほど電探技術が進んでいなかったにしても、なんらかの異常を米軍側は感じていただろう。米艦隊の一部はハワイから西に移動して、日付変更線あたりをうろうろしていた。

12月8日(現地は7日)未明、158機のゼロ戦部隊が真珠湾の米艦隊に奇襲攻撃を行い、大きな戦果を挙げた。事前に日曜日は、ハワイ放送で、米軍が休暇を楽しむことを知っていたからだ。


ゼロ戦の飛行を感知する電探機が、米軍にはすでに設置されており、電波はとどいていたが、担当者が当日飛行予定の米軍の飛行機と勘違いして、油断してしまったそうだ。

米軍の電探機アンテナ

ゼロ戦は、クルシーという無線帰投装置で、ハワイからのジャズ放送をたよりに進路をとっていた。


また真珠湾のような浅い海で使える特殊な魚雷を開発しので、成功率
が高い攻撃であった。

特殊魚雷攻撃

山本五十六長官は、戦艦長門で攻撃の成果電信を聞いていた。日本軍からは、トラトラトラの電信がはいり、平行して米軍の電信がいくつか入電した。



山本は、これを聞いてニタリとほほ笑んだらしい。

しかし、特殊潜航艇による海底からの攻撃は、防御網により阻止されて、完全な失敗に終わった。

奇襲のハワイ戦では大成功だったが、その後のミッドウエイ海戦では連戦の疲れもあり、惨敗であった。

私にとっては、その後のラバウルで戦死した従兄の悲報が身近な出来事であった。

その後4年に及ぶ太平洋戦争は、敗北の連続で、1945年8月15日には、原爆2発による完敗認識で、日本は敗戦をむかえた。


私がはじめて日付変更線をこえたのは、’68.5.21で、まだプロペラ機時代だった。
JALから日付変更線通過時刻に記念の色紙をもらったが、同時にハワイとミッドウエイの二つの海戦のことが頭をよぎった。

その後何回も日付変更線をこえたが、もうこんな色紙など皆無の時代となった。

先日のテレビ映画で、80日間で世界一周の賭けをした貴族が、終点に一日おくれで到着し賭けに負けたと落胆していたが、当地の日にちが、日付け変更線で80日目であったことに気づき、成功していたというドラマをみた。
太平洋戦争中も、何か日にちの差で、事件があったに違いないと思うが、あまり知られていない。




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