2022年7月2日土曜日

【 福岡県にある新羅、高句麗、百済の遺跡と地名 】

 【 福岡県にある新羅、高句麗、百済の遺跡と地名 】 FB 古代史研究会の記事

◆ 和白(わじろ)は福岡市東区香椎(かしい)にある香椎宮の神領となっていたところにある。…和白は議会を意味する新羅語であった。
◆ 筑前(福岡県)の伊都(いと)国が新羅の原号から出た伊蘇(いそ)国、すなわちソの国であり、その伊都県主(いとのあがたぬし)が天日槍の子孫である。『日本の中の朝鮮文化6』、金達寿、33p
◆ 北九州ではとくに豊前(ぶぜん:福岡県・大分県の一部)が集住地で、702年である大宝2年の豊前国戸籍台帳によると、その人口の93パーセント以上が(新羅・加耶系渡来人集団である)秦氏族とその係累とによって占められている。そしてかれらはその地に、有名な宇佐八幡宮などを祭っていた。『日本の中の朝鮮文化9』、金達寿、117p
★宇佐八幡宮(宇佐神宮):大分県宇佐市南宇佐2859 
◆ 中野幡能は『八幡信仰史の研究 上・下卷』の千頁余の大著で、宇佐八幡宮の「古宮」「元宮」は香春神社であることを各所で述べている。『続秦の研究』、大和岩雄、153p
★香春神社:福岡県田川郡香春町733
◆ 宇佐八幡宮の祭祀氏族の辛島氏と、香春神社の祭祀氏族の赤染氏は同族の秦氏であることは、拙著『秦氏の研究』で述べた。177p
◆ 白木原(しらきばる)は新羅人(しらぎびと)の村ということになるが、…八女(やめ)郡には白木村が戦後の合併まであった。いずれも古代朝鮮とかかわりの深い地である。白木神社は、糸島郡に4社、朝倉郡秋月町、嘉穂郡大隈町に1社ずつある。みな渡来人にゆかりの地である。『日本の中の朝鮮文化10』、金達寿、28p
◆ 志摩町の地図をみると、加夜郷、鶏永(けえ)郷(いまは芥屋(けや))、可也山などとともに、もとは新羅神社だったはずの白木神社が目につき、それが西浦、野北、草場と三社もある。背振山地の韓国(からくに)山だった王丸山にあるそれを加えると、白木神社はこれで4社となる。91p
◆ 『日本書記』には「伊都(と)国」と書かれて、「伊都国は伊蘇(そ)国の訛(よこなま)れるものなり」とある…金澤庄三郎氏が丹後(京都府)の余社(よさ)のサ(社)とともに、伊蘇のソ(蘇)は新羅の「民族名」である。81p
◆ 筑紫君磐井は、いまから千五百年ほど前、この八女地方を本拠にして北九州を支配していた豪族です。…筑紫君一族の発祥の地は、福岡県筑紫野市筑紫だったといわれています。そしてここに鎮座する筑紫神社は、筑紫君が祭祀しました。祭神白日別(しらひわけ)が韓神であることは、筑紫君の先祖が朝鮮半島からの渡来人であったこともうかがわせます。
★筑紫神社:福岡県筑紫野市原田2550
◆ つまり「白日別」とは「新羅からの別れ」ということにほかならなかったのである。その「白日別」が「韓神」となったのも、そういうことからだったにちがいない。要するに、次にみる、「磐井の乱」ということで有名な筑紫君磐井一族は、その新羅や加耶と密接な関係にわったのである。127p
◆ 巨大な岩戸山古墳を中心として東西にのびたその八女丘陵は一帯が古墳で、西4キロほどさきには磐井の祖父の墳墓という5世紀中期の石人山古墳があり、東にかけてはいずれも国史指定史跡となっている、金銅製圭頭大刀などを出土した乗場古墳、丸山塚古墳、茶臼塚古墳、丸山古墳などがならんでいる。うち乗場と丸山塚とは装飾古墳で、横穴式石室のそれは写真でみても、神秘的な色彩が印象的である。130p
★石人山古墳: 福岡県八女郡広川町一條
★広川町古墳公園資料館(石人山・弘化谷古墳公園):福岡県八女郡広川町大字一條1436-2
★乗場古墳: 福岡県八女市大字吉田1640他
◆ 継体天皇21年6月、筑紫君磐井は、突如、九州において兵をあげた。時は西暦527年のことであった。…南加羅はまだ「新羅に併合され」てなどいなかった。だいたい、加耶諸国が新羅に併合されるのは、最終的には562年で、南加羅の金官加羅がそれにさき立って併合されたのも、532年のことであった。…これでもう、『日本書紀』の記述はもとより、井上氏の「概略」まで虚構だということがわかる。134p
◆ 「磐井の乱」は、巨視的にみれば、「百済と結んでいた」大和政権と、「新羅と結んでいた」筑紫君磐井との戦いであったという点で、百済と新羅との対立抗争を反映したものだったかも知れないが、しかし実質的には大和政権による、日本を政治的に統一するための戦争だったのである。136p
◆ 杉山洋氏の『岩戸山物語』をみると、いわゆる「磐井の乱」は「大和政府が国家統一のために、土地所有を目的とした屯倉(みやけ)制を北部九州にも拡大しようとした。それに抵抗して、磐井は自己防衛の戦いをいどんだ」その結果、「磐井との戦いに勝った大和政府は、北部九州の各地に屯倉を設置します。そのために、豪族の連帯組織は断ち切られて、北九州連合体は完全に崩壊します」とあるが、私もそうではなかったかと思う。137p
◆ 奥野正男氏は、津屋町宮司にある宮地嶽(みやじだけ)神社の宮地嶽大塚古墳について、こうも書いている。…胸形徳善の墓とみられる宮地嶽大塚古墳が石室長22メートルで全国4位、その副葬品の豪華さは目をみはるものが多いが、石室構造や外周の石積みなどは新羅の古墳とまったく同型である点に注目すべきであろう。143p
★宮地嶽(みやじだけ)神社:福岡県福津市宮司元町7-1
★宮地嶽大塚古墳:福岡県福津市宮司元町7-1
◆ 胸形=宗像氏も新羅・加耶から渡来したもので、秦氏と同じ系列の産鉄氏族ではなかったか、ということなのである。144p
★久原澤田古墳群:福岡県宗像市久原307
◆ 沖ノ島の祭祀遺跡にあった遺物はみな、いまでは宗像大社の宝物館にうつされている。146p
★宗像大社(辺津宮):福岡県宗像市田島2331
◆ 鐘崎に、これも宗像大社と同じ『延喜式』内の古社で、織幡(おりはた)宮ともいわれる織幡神社があった。…「沖ノ島が一のねえちゃんで、ここの織幡さんが二のねえちゃん。それから、宗像さんを三のねえちゃんというねん」…『福岡県の歴史散歩』にこうある…また近くの勝浦には古代における織物のことをつかさどった秦氏や勝部が住んでいたといわれ、宗像の織物の歴史は古い。機織宮はこうした機織の神をまつる神社と考える学者も多い。 ここにいう「勝部」というものも秦氏のことである。152p
★織幡神社:福岡県宗像市鐘崎224
◆ その遠賀郡にも秦氏族がいて、氏神としての厳島神社を祭っていた。153p
★厳島神社:福岡県遠賀郡岡垣町黒山737、福岡県遠賀郡芦屋町山鹿18、福岡県遠賀郡芦屋町山鹿4
◆ 弥生時代の「遠賀川式土器」で知られた遠賀川がとおが(遠賀)川、またはえんが(遠賀)川ではなく、朝鮮語そのままオンガ(遠賀)川であるのも私にはおもしろかったのである。154p
◆ 「遠賀川式土器」については『日本史辞典』(高柳光寿・竹内理三編)にこう書かれている。…九州から四国・中国・近畿・伊勢湾沿岸にまで分布し、東限は長野県伊那谷まで。遠賀川式土器の波及状態から、弥生文化の伝播・発展の跡をたどることができる。154p
◆ 北九州市門司区の国鉄門司駅の付近に「白木崎」があり、その近くに「高麗(こま)」と「百済」というところがあった…堤富雄氏の「古代朝鮮と北九州」にると、もとあった新羅崎はいまは白木崎となり、百済は楠原となった。それにまた、付近には高句麗の高麗江というところもあって、それは小森江となっているというのだった。158p
◆ 新羅(しらぎ)人の居留地であったところを、白木(しらき)と称しているところは多い。これは新羅来(しらぎき)の転で、すなわち「新羅から来た人々の居所」と考えられている。北九州市には八幡区大字畑に白木、門司区大字楠原に白木崎がある。159p
◆ 『魏志』「倭人」伝のいう「伊都国」だった糸島郡(怡土郡と志摩郡とが合併した)のそこには、新羅・加耶系渡来人である天日槍集団ののこした産鉄などの遺跡がいまなおいたるところにある。これも古代朝鮮式山城だった怡土城の境域内にある高祖神社などもその遺跡のひとつで、瀧川政次郎氏の「比売許曾の神について」をみると、さきにみた祭神のひとつである香春神社の辛国息長大姫大目命も天日槍集団、すなわち比売許曾神の移動したものだった。169p
★高祖神社:福岡県糸島市高祖1578
★香春(かわら)神社:福岡県田川郡香春町大字香春733
◆ 辛国息長大姫大目命を祭神とする香春神社をいつき祭ったのが赤染氏であり、その赤染氏は秦氏族からの出であった。172p
★香春(かわら)神社:福岡県田川郡香春町大字香春733
◆ 平野邦雄氏の『大化前代社会組織の研究』をみると、古代日本の産鉄集団は新羅系の秦氏族による倭鍛治(やまとかぬち)と百済系の漢(あや)氏族による韓(から)鍛治とであったが、どちらかというと秦氏族による倭鍛治がさきだった。173p
◆ 『播磨風土記』によれば、天日矛の説話を有する地域は、秦氏の居住区とほぼ完全に重複し、播磨西部諸郡を占める。…さらに『風土記』によると、この郡〈飾磨(しかま)郡〉に豊国村があり、筑紫豊国の神を祭るとあって、それが豊前秦氏の祭祀した香春の「新羅神」であることにまちがいなく、また同郡に新羅訓村もあり、「新羅人」の居住したところと伝えている。174p
◆ 添田町にある岩石山(がんじゃくさん)という山の説明に…「その昔、上古、素戔嗚尊の御子曾褒里(そほり)神が西の麓(今の添田)を開墾されたとされることから、その名にちらんで最初、曾褒里山と呼ばれていました。曾褒里神は添田地方の地主の神といわれ、添田の地名も曾褒里がつまってできたとされています」と。…添田地方さえもが朝鮮からの渡来人が開拓したのだ、ということになる…添田町の添田ということも曾褒里(そほり)、すなわち新羅の村邑または都邑ということであったソブル・ソウルからきたものだったのである。182p
◆ 京都(みやこ)平野は…秦氏族が展開していた豊国(豊前・豊後)の中心地のひとつで、桐畑隆行氏の『新豊前風土記』によると、「秦王国」となっていたところとしているが、そういわれてみると、宮処(みやこ)=京都(みやこ)郡という地名などからして、たしかにそうではなかったかと思われるところもある。184p
◆ 高良山(312メートル)の頂上部にある高良神社は筑後国一の宮であるだけでなく、「九州総社」ともいわれる大社である。…眺望絶佳。『日本の中の朝鮮文化10』、金達寿、107p
★高良神社: 福岡県久留米市御井町1番地
◆ 全国あちこちにある「高良」や「高来」というのはふつう高句麗=高麗がそれとなったものとされているが、高良山の高良は、それがある所の久留米ともまたかかわる。112p
◆ 呉媛(くれひめ)、呉女(くれめ)というのは、朝鮮語高句麗(コクレ)の句麗(高は美称)からきた呉織(くれはとり)ということと同じで、それがこちらでは呉媛、呉女となって久留米となり、「久留米絣(くるめかすり)」というのもそういう伝統からきたものかもしれない。113p 
◆ 高句麗の壁画古墳が源流という「筑後装飾古墳」のひとつである珍敷塚は、久留米から東へ20キロほど行った浮羽郡吉井町にあった。…そこにはまた日ノ岡、月ノ岡装飾古墳もあって、 113p
★珍敷塚古墳: 福岡県うきは市吉井町富永649-3
★日ノ岡装飾古墳:福岡県うきは市吉井町若宮366-1(日岡古墳)
★月ノ岡装飾古墳:福岡県うきは市吉井町若宮358-1
◆ こちらの多多良川・多多良浜・多田羅などにしても、大内氏が称したその姓の多多良からきたものだったはずである。それからまた、この多多良川河口の近くに妙見島というのがあるが、この「妙見」というのも、大内氏の祖が朝鮮からもたらした、北斗星を本地とする妙見信仰からきたものだったにちがいない。周防の多多良浜には、「琳聖太子着岸之地」という岸津妙見社がある。26p
★岸津妙見社(岸津神社):山口県防府市岸津1丁目1 、 山口県防府市牟礼4248-1
◆ 大野城は肥前(佐賀県)の基肄(きい)城ほかとともに、百済がほろびたことで渡来した憶礼福留、四比福夫らによって築かれたもので、…北側に大きな谷を取りこんだいわゆる包谷式山城で、土塁線の総延長約6キロに達し、わが国における朝鮮式山城のなかでも最も規模の大きな山城である。103p
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