2022年7月21日木曜日

曽我兄弟の仇討ち

工藤・伊東・河津家の家系図

伊豆の伊東荘を領する工藤祐隆は、嫡男伊東祐家が早世すると、後妻の連れ子である継娘が産んだ子(その実父は祐隆本人ともされる)である伊東祐継を養子とし、嫡男として本領の伊東荘を与え、同じく養子にした孫の祐親には次男として河津荘を与えた。

嫡男の伊東裕家の子で、嫡孫として約束されたはずだった伊東祐親は、総領の地位
を奪われたことに不満を持ち、祐継の死後にその子・祐経が上京している間に伊東
荘を奪ったうえ、祐経に嫁がせ自身の娘・万劫御前とも離縁させてしまった。


これを深く恨んだ祐経は安元2年(1176年)10月、郎党に命じて狩りの場にいた祐親を襲撃させる。刺客の放った矢は祐親を外れたがで、共にいた嫡男・河津祐泰が射殺され、これがのちに祐親の孫達が起こす曾我兄弟の仇討ちの原因となる。

曽我は兄妹の母の再婚先の姓で、河津が本来の姓であった。



曽我兄弟は、頼朝の御家人ではないので、巻狩りに参加することはできなかったが、これを可能にしたのは、北条時政であった。



時政は伊東祐親の娘婿であり、曽我兄弟の烏帽子親でもあった。



しかし、単に兄弟の仇討ちの支援するだけでなく、密かに工藤祐経の領地にでる砂鉄の資源を横取りしようと企んでいた。

また頼朝を殺害し、比企家に親しい頼家も排除して、実朝を鎌倉殿にし、幕府を北条家の勢力下にしようという下心もあったという説もある。

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結果的には、これらの企ては外れて、仇討ちの美談だけが残った。

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