2021年5月1日土曜日

長平の戦:紙上談兵

 


 
長平の戦い 

紀元前260年、秦と趙の間で、戦国時代最大の決戦が行われた。

この戦いの決戦における秦軍の総司令官は白起、趙の総司令官は若い趙括である。

 「緒戦」

初め秦軍は洛陽方面から韓都へ兵を進め、韓と趙の連合を事前に絶ち切り、四月には王齕(おうこつ)を総司令官として上党郡へ発向した。

一方 趙では、上党郡守備の総司令官に名将廉頗(れんぱ)を任命したが、廉頗は小競り合いの後、丹水上流の長平に堅陣を構えて、徹底的な防御策を講じた。

秦軍は丹水を遡上して長平に迫るが、趙の設けた城塞を一気に攻略することは出来ず、各個撃破で二つの城塞を突破した。

しかし長平上に至るには、さらに二つの堅城を攻略する必要があった。

七月には西王山の堅城を落とし、長平まではより近くなった。
だが廉頗は趙軍の前衛を退きながらも、次々と城塞を構築して守備に徹し、持久戦に持ち込もうとした。かくして戦線は膠着状態となった。



 「秦の謀略 范雎の離間の計」 

廉頗は防御態勢を固めて秦軍に付け入る隙を与えなかったので、業を煮やした秦軍は、宰相范雎の策で趙軍に間諜を入れた。

 「秦の悪(にく)む所は,独り馬服君趙奢の子・趙括が将とならんことを畏るるのみ
即ち秦は、「趙括が総司令官となることをひたすら畏れるのだ」と流布させた。

趙の考成王は、まんまとその策に嵌まった。

それまで考成王は廉頗に再三 檄を飛ばし督戦を促がしていたが、廉頗が持久戦に徹したので、遂に痺れを切らして廉頗を更迭した。

 「趙括を国防総司令官に任ず」

趙の考成王は趙括を総司令官に任じたが、趙括の母親は直ちに参内して趙王を諫言した。

趙括は、趙の名将として名高い趙奢の子であった。趙奢の生前のことであるが、親子で図上演習したことがあった。

だが息子の趙括は、その図上演習では実戦の名将である趙奢を何度も撃ち破り、其の事が趙国内では知れ渡り評判も高かった。

ところが世間の評判とは裏腹に、趙奢は妻に趙括は我が家を亡ぼすであろうと常々危惧していた。

そのような訳で、母親は急遽 参内したのである。母親は、
「吾が夫は生前に、趙括は紙上で兵を談ずるには長じておりますが、実戦の裏付けが無い為 理論を過信し過ぎる嫌いがあると申しておりました。
  「紙上談兵」
王様がどうしても、このような者を大将となさって、もし趙軍が敗れたとしても我が家には罪を問わないとお約束してください」と懇願した。

ところが趙王は、その諫言を謙遜と受け取り、その訴えを退けて事後の無事を約束をしたのである。

 「趙括の采配」

趙括は廉頗と交代すると、直ちに軍令、軍律を改変し、意に沿わない将軍を戦列から引き離した。

しかし彼ら将軍は、廉頗の意図をよく察していた実戦経験豊富な幕僚であった。
その一方 秦王は、名将白起を対韓陣営から離脱させ密かに総司令官に任命し、王齕は副司令官となった。

だがこの人事は、秘密裏に行われ趙軍を警戒させないようにした。

白起は趙軍を、長平の城塞から引きずり出そうと策を練った。
廉頗ならこの策に乗らないが、若い趙括なら必ず罠にかかると読んだのである。

最初は適当に敗戦を繰り返しながら、陣を少しずつ後退させ、徐に趙軍を挑発した。

 「趙軍 長平城塞から出撃す」

当初 秦軍は平野部に本営を置いていたが、前線であるで西王山の城塞を攻略してからは、本営の方に前線を引き下げ、騎兵を含む奇襲部隊を左右に配置した。
乃ち西王山を踏み越えて進軍して来る趙軍に備えたのである。

趙括は斥候からの情報により、秦軍の後退を判じてから、いよいよ長平城塞をでて秦軍追撃の命を発した。

 「趙軍の惨滅」

趙軍の追撃が始まったが、白起は速やかな退却は不審を懐かせるとして、多少の犠牲は払ってもそれらしく退却させねばと考え、退路には土塁を築きつつ、趙軍に抵抗しながら徐々に退却させた。

かくして秦軍にも被害は生じたが、無理な進撃をする趙軍の損害も大きかった。

だがその内、趙軍は秦軍の包囲網に嵌まってしまった。
秦軍の左右に於いていた奇襲部隊二万五千の左軍は西王山を抜け、右軍は韓王山の南端から趙の背後に迫り、長平の城塞から離れすぎた趙の主力軍を攻撃した。

この時 秦軍は、趙軍の後方攪乱と邯鄲と長上城塞からの救援軍を阻止
するため、五千の騎兵部隊を投入していた。

ようやく我に返った趙括は、長平城塞に帰って態勢を立て直すべく退却を命じた。

西王山を越え丹水に向かったが、待ち受けていた秦軍の精鋭部隊が包囲した。

進退窮まった趙括は、長平谷で車陣を組んで秦軍の攻勢に堪えようとしたが、糧食を殆ど帯同していなかった。

白起はここで持久戦に持ち込もうとし、幾重にも柵を構築した。
趙括軍は孤立し、四十六日が経過した。趙の兵士は物を口にすることも無く、骨と皮になった五万の兵士が錯乱し、活路を求めて必死の攻撃に出た。

突撃は四度繰り返されて、遂に趙括と共に殲滅した。

この時 趙にはまだ四十万の兵がいたが、当に餓死寸前の危機にあった。

 「戦後処理」

戦いの後、秦では趙軍四十万の投降兵の扱いで迷った。
本来ならば自軍に編入するのが戦国の世の習いであったが、如何せん元は韓の領土であった上党郡の民の兵が多く含まれていたので、白起は秦を嫌って趙に加わった連中のことだから、きっとまた背くに違いない、と判じて幼年者の二百四十名を除いて、全員の投降兵を阬殺(穴埋め)した。

昭和時代の日本軍の参謀本部も趙括と同じように、紙上談兵で、敗戦に終わったのでした。

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