◇◇◇法隆寺は観世音寺が斑鳩に移築された?◇◇◇
聖徳太子の没後1400年で、太子の人生や法隆寺などの美術品の展示会がひらかれている。
しかし「聖徳太子」は架空の人物、教科書から消すべきだ。「日本書紀」の史実はいかがわしい。そんな識見が近年、真実味を帯びてきた。
奈良、法隆寺も、建築史学に詳しい米田良三『法隆寺は移築された』の著書では建築史学の立場から「異なった見え方の存在」を実証された。
従来の〝常識〟とは異なり、太宰府の観世音寺から、斑鳩に移築されたのが法隆寺であるという説の真実は、傾聴に値すると考えられる。
法隆寺解体修理報告書や、最近の観世音寺の基礎の発掘調査などの詳細な検討による結論の背景には、倭国(九州王朝)の滅亡があり、この国の文化はビザンチン文化に匹敵するものだと説く。
解説図の主なものを、以下に示す。
観世音寺の発掘調査を進めている九州歴史資料館が、04/3/17、8世紀の創建当時のものとされていた現存する講堂の礎石の下から、さらに古い時期の建物の基礎部分を見つけたと発表した。
調査は1月 に着手講堂の周辺約150㎡を発掘。
講堂の基礎部分を掘ったところ、礎石の据付穴と根石を見つけた。
穴や根石の配置から創建時の講堂 は東西30m、南北15.36mと一回り小さくなってることも判明した。
再建された講堂の基壇部分から焼土炭層も見つかり、観世音寺に関する文献「扶桑略記」「本朝世紀」が記録する1064年の堂塔回廊の焼失を裏付けた。
又講堂の基壇は金堂と比べて造りが雑な事などから「金堂と塔を最初に造営し、次に講堂を造ったことも推察される。
もともと飛鳥時代の近畿地方の(五重)塔の心柱は掘立柱であったことは、ほかの遺跡の発掘からわかる。
ところが、現在飛鳥時代の建築として残っているものは、皆、基壇に据えた礎石の上に立っている。
掘立柱と礎石とは明らかに技術がちがう。
それで、現存する飛鳥時代の建築といわれるものは、どこからか移築されたのではないかと考えられる。
どこかといえば、当時の状況からして自ずと九州から、ということになって、いろいろ調べてみると、裏付ける資料が見つかった。
法隆寺の西院伽藍だけでなく、夢殿を中心とする東院伽藍、法輪寺、法起寺などは
一連のものとして移築されたのではないかと思われる。
穴や根石の配置から創建時の講堂 は東西30m、南北15.36mと一回り小さくなってることも判明した。
再建された講堂の基壇部分から焼土炭層も見つかり、観世音寺に関する文献「扶桑略記」「本朝世紀」が記録する1064年の堂塔回廊の焼失を裏付けた。
又講堂の基壇は金堂と比べて造りが雑な事などから「金堂と塔を最初に造営し、次に講堂を造ったことも推察される。
ところが、現在飛鳥時代の建築として残っているものは、皆、基壇に据えた礎石の上に立っている。
掘立柱と礎石とは明らかに技術がちがう。
それで、現存する飛鳥時代の建築といわれるものは、どこからか移築されたのではないかと考えられる。
どこかといえば、当時の状況からして自ずと九州から、ということになって、いろいろ調べてみると、裏付ける資料が見つかった。
法隆寺の西院伽藍だけでなく、夢殿を中心とする東院伽藍、法輪寺、法起寺などは
一連のものとして移築されたのではないかと思われる。
移築という発想のもう一つの契機となったのが、678年の白鳳大地震を知ったことである。
この時、飛鳥では回廊の壁が発見されて話題を呼んだ山田寺を始め、掘立柱系の多くの建物が崩壊したのではないかと思われる。
ところが、九州の建物はまったく壊れていない、無傷だった。
そこで、大和政権は震災からの復興に九州の建物を移築したのではないかと思った。
この時、飛鳥では回廊の壁が発見されて話題を呼んだ山田寺を始め、掘立柱系の多くの建物が崩壊したのではないかと思われる。
ところが、九州の建物はまったく壊れていない、無傷だった。
そこで、大和政権は震災からの復興に九州の建物を移築したのではないかと思った。
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