2021年8月11日水曜日

日本の政党内閣第一号


日本における政党内閣は、明治22年に憲法が発布されて9年後の明治31に成立した第一次大隈(おおくま)内閣(いわゆる隈板(わいはん)内閣)が最初のものである。

大隈重信

その後、大正期後半から昭和初期にかけて政党内閣が続いたが、この時期の政党内閣はいずれも陸・海両相を政党員から選ばず、外相も多くは官僚から任命し、その意味で完全な政党内閣とはいえなかった。



明治憲法下での政党内閣は五・一五事件(1932)で姿を消した。


第二次世界大戦後、政党政治が復活し、議院内閣制をとる日本国憲法が制定されたため、今日ではすべての内閣が政党内閣となっている。

また、大隈の政党内閣が成立するまでには、明治14年の政変という複雑な経緯があった。

明治14年の政変とは、1881年(明治14)10月、10年後の国会開設、開拓使官有物払下げ中止の決定とともに、参議大隈重信(おおくましげのぶ)とその一派を追放し薩長(さっちょう)藩閥政府の強化を計った政治的事件

自由民権派による国会開設請願運動の高揚のなかで、政府がはこれを弾圧しつつも憲法制定・国会開設への決断を余儀なくされつつあったが、その内部では、参議伊藤博文(ひろぶみ)を中心とする薩長系参議の漸進論と大隈の急進即行論とが対立していた。

伊藤博文

同年3月、大隈が政党内閣制を容認するような憲法意見書を単独で上奏するや、この対立はさらに激化した。

そのうえ、北海道の開拓使官有物の有利な払下げ条件をめぐる開拓使長官黒田清隆(きよたか)と開西貿易商会の五代友厚(ごだいともあつ)との薩摩閥同士の癒着が暴露され、民権派はじめ国民的な非難攻撃のなかで大隈もまたこれに反対するや、政府部内での対立は決定的となった。

右大臣岩倉具視(ともみ)も伊藤と組んで井上毅(こわし)にプロシア流の憲法構想を立案させ、大隈のイギリス的議会主義を排撃していたが、ついに井上をブレーンとして大隈放逐のクーデターを計画、岩倉・伊藤は薩長系参議とともに、天皇の東北・北海道巡幸からの帰京を待ってこれを断行した。

この政変で明治憲法体制確立への第一歩が画され、下野した大隈の立憲改進党も含め、板垣退助(たいすけ)らの自由党を中心とする自由民権運動と薩長藩閥政府との対抗も新段階に入った。

以上のように、伊藤と大隈が対立の姿勢で解釈されているが、伊藤は薩長系にいながら、心底ではイギリス的議会主義を目指していたので、明治31年に自由・進歩党の合併で憲政党が結成されたときに、政権を大隈に譲ったともいわれている。。

これが政党政治第1号となるが、しかし第1号は内閣は半年でつぶれ、その後日露戦争や伊藤の暗殺事件などもあって、第2号が成立するのは15年も後になる。

しかし戦前の政党政治は、軍や官僚の力に勝てず、本格的な政党政治にいたらなかった。

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