大友、竜造寺を倒して九州全土の制覇を狙った島津軍の北上に対し、秀吉は休戦を命じたが、島津はこれを無視した。
そこで、豊臣軍は小倉に上陸して、秀長軍は九州東沿岸を南下、秀吉本軍は筑前、筑後、肥後を南下して、島津軍と戦った。
秀長軍は、黒田、小早川が軍師格で作戦を指導し、豊前、豊後を征服し、日向まで南下した。(黒田官兵衛も初めての九州戦であった。)
島津義久は秀長の軍勢に備えるために薩摩・大隅などの軍勢の大半を日向都於郡城に結集した。
局面の打破を迫られた義久は、高城(木城町)を包囲する秀長の軍勢に決戦を挑んだ。4月17日夜半、島津軍は根白坂を急襲した。
この根白坂は高城の南側に位置する坂で、島津軍が高城を救援するなら必ず通らないといけないルートだった。
そのため島津軍の救援を予想していた秀長軍は根白坂に砦を構築し、要塞化して守備を固めていた。
これが根白坂の戦い(ねじろざかのたたかい)で、天正15年4月17日(1587年5月24日)に日向国、根白坂で行なわれた。
この時の両軍の兵力は諸説があって定かではないが、豊臣軍は8万、島津軍は3万5000ほどだったといわれる。
砦の守将 宮部継潤らを中心にした1万の軍勢が、空堀や板塀などを用いて砦を堅守。これを島津軍は突破できずに戦線は膠着状態に陥った。
ここに秀長の本隊が救援にきたが、状況を見た軍監の尾藤知宣は救援は不可能、島津の軍に当たるべからずと秀長に進言し、秀長本隊は軍監の言に従い、救援の中止を受け入れた。
しかし豊臣秀長麾下の藤堂高虎の500名と宇喜多秀家麾下の戸川達安の手勢らが宮部継潤の救援に向かい、島津軍を翻弄。
さらに小早川・黒田勢が挟撃を仕掛けたため、島津軍は大将格の島津忠隣・猿渡信光等のほぼ全員が討死し完敗した。
秀長らは追撃を行おうとしたが、尾藤がまた深追いの危険を主張したために追撃戦は行われなかった。
(尾藤は後でこれらの消極的な姿勢を秀吉に強く責められ、与えられたばかりの所領没収の上で追放。尾藤は諸国を流浪し、後に処刑された。)
完敗した義久・義弘は僅かな手勢と共に都於郡城に退却し、家久も佐土原城(宮崎市佐土原町)に兵を引いた。
豊臣軍は都於郡城を攻略し、三ツ山(宮崎県小林市)・野尻(小林市)の境界にある岩牟礼城(小林市)まで侵攻した。義弘は飯野城(宮崎県えびの市飯野)に籠城した。
根白坂の戦いから10日も経たぬうちに、九州西部では豊臣本隊が島津氏の本国である薩摩へと侵攻し始めていた。有力な家臣で一族でもある島津忠辰や島津忠長らもついに降伏していった。
根白坂での主力決戦に完敗した島津氏は軍を立て直す暇もなく、義久は戦意を失い剃髪して龍伯と号した上で、5月8日に豊臣秀吉に降伏した。
大友宗麟の死亡後は、岩屋城玉砕の高橋一族の高橋元種が、日向延岡にはいった。
木城町の高城は、九州平定後の秀吉により、肥後の秋月氏が移封され、以後は高鍋秋月藩の治下に属し、その後一族から上杉鷹山がでたことで有名だ。
明治4年の廃藩置県になるまでその領政の支配を受けていたが、明治16年宮崎県の児湯郡役所の所轄となった。明治22年の市町村制の実施に伴い当時の椎木の『木』と高城の『城』を組み合わせて『木城町』とした。高城城跡は城山公園となっている。
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