朝倉に出かけて、「卑弥呼の墓は朝倉市山田にあった」という資料をもらった。朝倉歴史研究会の作成。
戦後卑弥呼ブームが起こった頃から、甘木・朝倉は候補にあがり、H25年頃のデータでは、九州説のトップで131、2位は博多湾沿岸で102、3位は吉野ケ里で86などとなっている。
私の記憶では、甘木地区に大塚という字名があり、これが卑弥呼の墓があった証拠という説があったが、最近ではみかけない。
甘木市時代に、奥野先生の講演を現地できいたが、筑後川流域を邪馬台国連合の邦とする説であった。
平塚川添遺跡を見学に行ったときころは、卑弥呼の墓との関連は何もなかった。
当時地元の教師だった知人は、斉明天皇の朝倉橘広宮の歴史調査に熱心だったので、私もその場所を訪れたり、異様な死を遂げられた筑紫朝倉宮を訪れたりした。
今回の史料では、山田サービスエリアの南斜面にある「長田大塚古墳」が、九州一の規模の円墳で、まだ未調査のため正規の文献にはのっていないが、150mくらいの直径があり、魏志倭人伝の「径百歩」に相当するから、卑弥呼の墓の可能性があるとしている。写真や航空写真を大きく掲載さいしている。
かっては別の人物の古墳とされていたようだが、斉明天皇より古代につながる歴史として、この古墳の山の上にある秋葉宮の石詞の神が神話につながる物語があることや、麻底良山はアマテラスが訛った名前とか、邪馬台国はヤマダと発音していたなど、新説を強調している。
長田大塚古墳 |
山の上にある秋葉宮の石詞 |
朝倉市では、ふるさとづくり支援事業として、このような資料つくりや、卑弥呼まつりを盛んに行っているようだ。
ただ朝倉に邪馬台国があったから斉明天皇もここに遷都してきたのだという説明は、すこし強引すぎるようだ。
別の説:
朝倉市が邪馬台国だという根拠を説明します。
卑弥呼は亡くなると 「塚」 に葬られます。そして塚で祭祀「ヒラ(平)」が行われます。
そんな高貴な塚を「平塚(ヒラツカ)」と呼びました。同市には平塚川添遺跡がござる。
また市内の大平山には天孫降臨神話があり古い信仰形態を残しています。
対馬にも大平山は散在しており現在においても頂で嶽祭が継承されているのです。
平(ヒラ)は祭祀場の意味があり、平塚は祭祀する塚、大平山は大勢が祭祀する山です。
さらに興味深いことに朝倉市近郊には「奈良」や「奈良田」の地名がありまするぞ。
不思議なことに奈良県の奈良について語意を調べましたが不明です。そこで
対馬島内で調査した結果、上県町で二カ所を確認、古記録では「役所」の意です。
きっと、朝倉の奈良には邪馬台国の役所があったのでしょう。その後に畿内に遷都し
奈良県の基となる奈良が誕生したと推理しています。朝倉の奈良(役所)は移転したので
地名だけを留めています。奈良が移転した奈良県は朝倉市の分家みたいなものでしょうか。
朝倉市には「平塚」、「大平山」、「奈良」の三点セットが揃っていました。
そんなことから、朝倉が邪馬台国と憶断しました。
朝倉は「邪馬台国」の本命です。
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