2021年8月21日土曜日

和白ゴルフ場と旧杉山農園

 上和白地区の古地図を調べ、最後の図に、和白ゴルフ場(薄緑色:約20万坪)と旧杉山農園(薄茶色:約4.6万坪)を書き込み、字名のわかるところをペンで記入しました。位置は概略です。




北部分は汐入などの字名から海だったこともわかります。
大雨で大蔵池があふれた時は、鉄道線まで土砂が流れて不通になったとか。
高美台の字名は高見で、福岡自動車学校の付近は高藤で、コース内の5,6番の池は高藤池です。



黒い太い線から東は新宮町になります。
上和白字図

杉山農園の記録図(46000坪)

杉山茂丸は、アジアの国々が独立した後に国の基礎となる農業が立ち行くように、農業指導者を養成するための農園を、息子の杉山直樹(夢野久作)に命じて、福岡に創らせました。
その息子龍丸は、茂丸と久作の二人から、
「杉山農園は、杉山家のものにすることは許さない。アジアのために使いなさい。」と言われて育ったそうです。
ですから、龍丸は弟二人とけんかしても、アジアのために役立てようとしました。
 
そんな龍丸は、戦争で負傷して余命5年と言われて帰国したため、福岡市にアジアのために使ってほしいと、農園のほとんどを寄贈します。
ところが、福岡市は、その土地をゴルフ場としようとしたために龍丸は激怒して福岡市役所に乗り込みます。
交渉の結果、ゴルフ場用地以外は、龍丸に返還され、昭和20年代後半、ゴルフ場開発を行った西鉄の社長が東京までお金を渡しに会いに来たと、父の同級生だった桑原廉敬さんにお聞きしました。

その資金が、僧侶になっていた士官学校の同級生からインドの留学生の世話を頼まれたときに、支援資金になったものと考えられます。


「杉山龍丸の福中の同級生だった桑原廉敬さん(桑原福岡市長のおじさん)の話:
戦後、負傷して帰国した龍丸は、アジアの為に使って下さいと福岡市に杉山農園を寄付した。
すると、福岡市と西鉄が組んで、和白ゴルフ場を造る計画があり、杉山農園の土地も含まれてた。
怒った父は、趣旨が違うと、返還するように求めた。
福岡市は、和白ゴルフ場に使用する以外の土地は返還した。
昭和20年代後半、西鉄の社長が、東京まで、お金を持って、手打ちをしにきた。
直前まで、受け取るか迷って、桑原廉敬さんの所にやって来た龍丸を、もらっとくしかなかろうと、廉敬さんは背中を押して、会いに行かせた。
龍丸が、受け取ったお金は四百万円。
その後、龍丸はしばらくして、インド人青年を連れた日本山妙法寺の士官学校同期生に出会い、インド人の世話を頼まれた。
何人目かのインド人が、ガンジーの直弟子で、ガンジーの想いとガンジーの直弟子の真摯な態度に感動した龍丸は、インドのガンジーの直弟子達との交流をはじめた。」

私と福中23回生で同期の桑原和臣君は桑原市長の弟で、選挙のときは応援隊で頑張っていた。

ゴルフ場に接した三善病院あたりは杉山農園の土地だろう。渡辺通にあった多賀病院の娘さんが私と小学校同窓で、三善病院に嫁にいっていたので、同窓会の帰りに、一度病院まで行ったことがある。

この付近には、古墳などの遺跡が多い。




杉山龍丸のインド支援は、単に金額的な支援ではなく、現地調査と農業技術の知恵をふるに生かしたものでした。
「杉山龍丸が緑化したインドをロケバスで訪問する番組」が企画された時、息子の満丸は、父がインドで様々な活動支援をしていることは知っていましたが、純粋で頑固一徹な父に辟易することが多々あり、父の生前は、関わりたくない人物が父でしたので、なんとなく、緑化しているらしいことしか知りませんでした。
満丸は、父の圧力によって、高校も、大学も、就職も、自分で選ぶことはかないませんでしたの、そんな父のことを恨む気持ちもありましたが、いつしか父の純粋さに敬意を表する自分にも気づいていました。
だから、番組の企画でのインドロケ旅行は、満丸にとって毎日が感動の嵐になりました。

満丸に記録:

まず、ロケバスが走ったのはニューデリーから北西に伸びる並木道。数時間、同じような景色が続きました。並木の両側は、たわわに実った麦でした。
そして、その並木は、ユーカリの並木で、龍丸が提案して創られたものでした。
「ユーカリの並木ができるまでは、作物ができる場所ではなかったんですよ」 と説明を受けて驚きました。
並木の長さは、400km以上。ギネス記録の日光の杉並木の10倍以上であることを最近知りました。
その後、ヒマラヤのふもとの地域を数か所訪れましたが、父がすべての財産を失いインドを訪問できなくなって20年くらい経過していたと思うのですが、どこでも大歓迎を受けました。
心に響いた、インドの人々の言葉。
「あなたのお父さんは、心で語りかけました。だから、私たちも、心で聞いて、心で答えました。杉山イングリッシュも理解しました」 
因みに、杉山イングリッシュとは、英語が苦手だった父が作り出した独特の英語です。例えば、HAVEが付くと強調を意味します。
「福岡の杉山農園の緑はなくなったけど、その緑は、インドで広がり続けています。あなたの周りの緑は、すべて、タツマルの子供たちです。ですから、あなたの周りの緑は、すべて、あなたの兄弟ですよ」
インドの皆さんの優しい言葉に、涙が止まらなくなりました。
帰国した私は、父が遺した資料を、少しずつ読み始めました。
すると、まず、地道に現地調査をしていることを知りました。
確か、深井戸の側面の土の調査を行ったのが1万ヶ所と書かれていたように記憶しています。その結果、アショカ王朝より上の層からは、極端に有機物が減少していることを発見し、アショカ王朝の時代に森林を伐採し、レンガを焼いたのではないかと書かれていました。
そして、森林が伐採され、土壌中の有機物が減少するとともに地下水位も低下していったと考えて、木を植えることを提案したようです。
木がないと、「土壌中から土壌表面の蒸発だけが起こる」が、
木があると、「土壌中の水は土壌表面の蒸発と木の葉からの蒸散で失われる」から、
「木は切らなければ土壌中の水が失われる」というインドの常識を覆すために、ガンジーの弟子たちを福岡の香椎宮にある不老水に招き、緑が水を創ることを解いて説得に努め、徐々に緑化を進めていったことを知りました。

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