会津の山川家には、男二人(浩と健次郎)、姉妹五人(二葉‣ミワ・操・常盤・捨松)がいた。ここでは有名な男二人は省略し、五人姉妹を取り上げる。
1)二葉(長女、生没年1844~1909年)は、幕末に会津藩家老梶原平馬に 嫁ぎ、一人息子となる景清を儲けたが、平馬が家老職についたころ、水野貞という女性と深いなかになり、子をもうけたので、離婚して山川家に帰った。
会津戦争では、城内で戦に参加し、身内の武士や多くの負傷兵士の手助けや介護に活躍した。
会津の敗戦後は、青森の斗南藩に移住したあと、兄の浩と共に上京し、明治10年より、もと会津藩士の高嶺秀夫が校長をしていた東京女子師 範学校(いまのお茶の水大学)の舎監・教諭として30年近く奉職し、教育者として従五位に叙せられた。
二葉 |
2)ミワ・三和・美和(次女)は、3 歳上の二葉(長女)、2 歳上の浩(長男)に次いで、弘化 4 年(1847)11月 11日、山川家の次女として誕生し、文久3年(1863)6月11日、会津藩士桜井家(500石、 物頭)の長男政衛に嫁いだ。3歳年上(弘化元年(1844)生)の政衛は、結婚前、江戸勤 番を経て、文久 2 年(1862)に京都守護職に任命された会津藩主松平容保に従い、京都に 赴いていた。結婚後も、元治元年(1864)の禁門の変(蛤御門の変)に参加、孝明天皇 の御大葬では御出門の警護の任にあった。 慶応 4 年(1868)年 1 月 3 日、政衛は鳥羽伏見の戦いに参戦、2 月に会津に帰った。4 月、朱雀隊の二番隊足軽隊長に任命され、総野の戦いに参加、宇都宮の攻略に尽力する。 閏 4 月26日には、義兄である日光口総督山川浩(当時、大蔵)の指揮下に属し、野州今市 の攻略戦に参加した。7 月27日、二本松藩の救援に赴き、本宮口の戦いに加わるが、激戦 の末、二本松は落城となり、政衛は腹部貫通の銃創の重傷を負って会津に帰還した。
戸籍によると、ミワはこの間、慶応元(1865)年11月11日に長女ヤス、慶応 4 年 (1868)7 月 2 日に長男保 やすひこ 彦を出産しており、政衛は京都と会津を何度か往復していたこ とが分かる。 8 月23日、会津城下まで新政府軍が迫り、警鐘が鳴った。会津藩では藩士の家族に対 し、万一危急が迫れば警鐘を鳴らし、それに応じて入城するよう布告していた。重傷を負った政衛は自宅療養しており、家族に援けられて槍を杖き城に向 かったが、すでに城門は閉鎖され入城できず、若松南方雨屋に向かい、従者の家で療養し た。
桜井家に嫁いだミワは、政衛と行動を共にしたと思われ、籠城戦に参加 しなかった。もっとも生後 2 か月に満たない乳児を抱えながらの籠城には無理があった。
会津の敗戦後は、青森や北海道にわたり、苦しい生活をしながら、教育関係の仕事に携わっていたという。
3)操(三女、生没年1852~1916年)は、明治 4 年(1871)に旧会津藩士小出 光 照 に嫁ぐ が、明治 7 年(1874)の佐賀の乱で未亡人となる。明治13年(1880)5 月にロシアに留 学 、明治17年(1884)2月より宮内庁に入り昭憲皇太后に仕えた経歴を持つ。
操 |
詳細は追記に。
4) 常盤(四女、生没年1857~?年)は、明治になり山川家の書生であった旧会津藩士徳 力 徳 治に嫁いだ。徳力は司法省に勤め、検事総長となった。後、山川に改姓している。
同じ く山川家の書生で陸軍大将となった柴五郎の回顧録『ある明治人の記録』 には、常盤の逸話が度々登場するが、それ以外の資料に接することは出来ない。また、常盤の長男 戈 登 は 浩の養子となったが、東京帝国大学在学中に死去した。
常盤は大河ドラマ「八重の桜」に登場した。
5)咲 子(五女、生没年1860~1919年)は、明治 4 年(1871)、開 拓使募集の岩倉使節団の女子留学生となり、「捨てたつもりで待つ」=捨松と改名され、 11年間のアメリカ留学を経験する。明治15年(1882)に帰国し、翌年、旧薩摩藩士・陸 軍大将の大山巌 夫人となり、鹿鳴館の貴婦人と謳われた。看護学校や篤志看護婦人会の 発足に関わり、明治33年(1990)に設立した女子英学塾(同じく女子留学生であった津 田梅子が創立、現津田塾大学)の支援を行うなど、社会福祉事業や教育活動に尽力したことで、五姉妹のなかでは最も有名だ。
捨松 |
追記: 三女山川操について、詳細に説明する。
中村彰彦『山川家の兄弟 浩と健次郎』(学陽書房/人物文庫、2005年)には、山川操は「年月日不明ながらロシアに留学し、フランス語を身につけた」、
「操は十七年二月以前に帰国し、二月十二日、宮内省御用掛に任用された」とある。
明治7(1874)年、小出光照は、佐賀の乱に出征し、戦死してしまいました。
その後、操は山川家に復籍し、公立柳北女学校や学習院で教師をしていた。
操の留学の時期や経緯は、明治十三年五月、特命全権公使としてロシアへ赴任した柳原前光に同行し、
初子夫人の世話役を命じられたことによる。
ちなみに大正天皇の生母で「早蕨」の源氏名で呼ばれた女官・柳原愛子は前光の妹であり、
年下の恋人との駆け落ち、いわゆる「白蓮事件」で世を騒がせた柳原白蓮は、前光の妾腹の娘にあたる。
操と同じく柳原一行に加わった尾崎三良の自叙伝には、
「明治十三年五月末頃、柳原全権公使と共に横浜より仏国汽船にて解纜。一行には柳原夫人、付添女小出、書記生二人、高田正久、曲木如長、予と共に都合六人なり」とあるが、
この「付添女小出」が操のことだ。
ほぼ二年間にわたるロシア滞在中、操は「佛人ロールネール女」に従ってフランス語を学んだ。
特命全権公使夫人の付き添いとして渡欧するというケースでは、「国内廷諸礼式取調」の申しつけがあったらしい。
というのも、そもそも柳原前光がロシアに赴いたのは、ヨーロッパ各国の王室制度の調査を下命されたからだ。背景には岩倉具視や伊藤博文の周旋があったという。すなわち、操のロシア留学は私的なものではなく、柳原前光の妻、初子の付き添い役という、公的な役割を帯びていたし、ロシアの諸制度の調査も兼ねていた。
帰国後の柳原初子は、鹿鳴館で活躍しました。そして、操は、フランス語を「佛人ロールネール女」から教えられ、初子の洋服などの知識も習得していたようだ。
操と同様に、明治17(1884)年に御用掛となり、権掌侍、英語担当の通訳であった北島以登子は、イタリア特命全権公使の鍋島直大の妻、英子に従ってローマに渡りましたが、そのとき、宮内省は以登子に対し、
「伊国内廷諸礼式取調」を申し付けていた、という記録が残っている。
操にも、同じような役割が期待されていたのかもしれない。
山川三千子が、通弁の権掌侍たちがカタログを見て皇后の洋服を考えた、と証言していることも、北島以登子へのこの申し付けから納得される気がします。
操がロシアに渡った明治13(1880)年、捨松はまだ帰国していません。
捨松と津田梅子が帰国したのは、明治15(1882)年11月21日。
寺沢龍『明治の女子留学生』によれば、姉の二葉とともに、
ロシアから戻っていた操は、横浜港で捨松を迎えています。
なお、当時の操は、「フランス人の家に住みこみ通訳として活躍し」ていた。
捨松と大山巌の結婚は、明治16(1883)年11月8日。
翌年2月、操を宮内省御用掛として推挙したのは大山巌でした。
操は、明治17(1884)年2月12日、宮内省御用掛に任用されましたが、
そのことが、山川浩が操を明治天皇の後宮に入れたものと曲解されたとか。
操が皇子を出産すれば、賊徒と呼ばれた会津の血が天皇家に入る、と。
当然ながら誤った見方であることを、中村彰彦氏が検証しています。
まず明治天皇の後宮についていうと、
その寝所に侍る女官は権典侍(ごんのてんじ)に限られていた。
のちの大正天皇をふくむ三人の皇子皇女を産んだ柳原愛子、
おなじく八人を産んだ園祥子も権典侍。
なかには小倉文子のように、ついに懐妊しなかった者もいた。
この事実を押さえてから操の御用掛としての役割を調べてゆくと、
つぎのような記述にぶつかる。
操も、良人小出光照が佐賀の乱で戦死すると、
旧山川に復籍してロシアに赴き、フランス語を修得して、
照憲皇太后の通訳たる正五位権掌侍として、
外人が皇后に謁する機(おり)には、
必らず大きな役を果たしていたという。
掌侍は尚侍の誤植だろうが、梶原景浩は
山川二葉と梶原平馬との間に生まれた景清の子だから、操は叔母にあたる。
景浩は操と交流が深く、
「明治三十三年、大正天皇が皇太子時代に、
九条節子姫を妃に迎えられたとき、操が九条家お迎えに赴き、
ご陪乗で公式に入内されたということは、よくきかされていた」
とも語り残している。
ひるがえって権典侍は徳川将軍の大奥につかえた側室同様の存在で、
自分の局から外出することすら稀であった。
これに対して操は明治天皇にではなく、昭憲皇太后に女官としてつかえたのであって、その肩書は権尚侍。特に昭憲皇太后の使者として公務を果たしたことも、右の証言から知れる。
年齢も大正天皇より27歳も上であり、浩の「大謀略」説は成立しないのだが、
それにしてもどうして今日なおこのような説がまことしやかに語られるのか。
ありえないはずの誤解が語り伝えられてしまうほど、山川家は注目されていた。
妹の捨松がそうであったように、操も美貌の人であったからでしょうか。
いえ、注目したいのは、この大きな誤解それじたいではなくて、
明治33(1900)年、操が、大正天皇のご成婚に際して、
九条節子(貞明皇后)のお迎えに派遣され、ご陪乗して入内した、ということ。
貞明皇后の父、九条道孝は、戊辰戦争では東北地方を転戦しました。
また、貞明皇后の第二皇子である秩父宮雍仁親王は、
会津藩主だった松平容保の孫にあたる、勢津子妃を迎えています。
それが昭和3(1928)年、操は、最晩年にこの慶事をどのように喜んだことか。
ちなみに、操は、やはり「権掌侍」で正しいのではないでしょうか。
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