戦後80年の記憶:ゼロ戦と隼戦闘機
零式艦上戦闘機は第二次世界大戦期における日本海軍の主力艦上戦闘機で、零戦(ゼロ戦)の略称で知られている。
海軍の艦上戦闘機の主流として、日中戦争の半ばから太平洋戦争の終戦まで前線で運用された。
1940年の出現当時は世界最高水準の戦闘機で、特徴は徹底的な軽量化による高機動性、太平洋上での戦いのための長大な航続距離、また速度や武装のバランスも取れた機体であったが、軽量化と引き換えに防御性能は著しく低かった。
開発元は三菱重工業で、開発リーダーの堀越二郎、協力者に、松平精、本庄季朗、佐野栄太郎など多数。
開発のアイディアは欧米の戦闘機の情報も取り入れながら、パイロットの要望や実戦の状況を考慮した画像流走思考と呼ばれるものだった。
堀越二郎 |
製作は三菱に加え中島飛行機でもライセンス生産、総生産数の6割以上は中島製である。生産数は日本の戦闘機では最多の1万機以上。
私は旧制高校時代に、黒崎の三菱化成に学徒動員で、ゼロ戦の風防ガラスの職場で5か月働いた。メタアクリル酸メチルエステルという有機物で、液体を板状にして乾燥させ、傷のない板にする工程であった。
S20年3月徴兵検査の日にグラマンが福岡上空にあらわれ、機銃掃射をしてまわったとき、ゼロ戦との空中戦が志賀島上空で行われ、1機がぱっと火をふいて落下しはじめた。やったー!と思ったが、その翼に日の丸が見えた時はガックリした。末期のゼロ戦は性能もおちて、パイロットも未熟な方が増えていたようだ。
堀越二郎はゼロ戦の本を出しており有名だが、松平精氏は、IHIの常務になられていたとき、業務の関係で何回かお会いして、ゼロ戦の振動分析の研究などの話をきいたことがある。
また中島飛行機にいた糸川英夫の講演をきいたときの話では、彼の開発した隼戦闘機は、性能はゼロ戦に劣るといわれたが、昭和19年の後半から終戦まで、日本陸海軍の航空部隊が各地で目を覆いたくなるような惨敗を喫していた中で、主戦場から外れたビルマとさらに南東の辺境では、最後の最後まで、隼が信じられないような健闘をつづけたということだった。
堀越と糸川の設計思想は、「一触にして切る」というパイロットの要求をよく聞いて、制御性の良い戦闘機を作ることであった。
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