水郷都市「博多」 周囲の川と堀 |
古代は「那の津」の名前からはじまり、中世からは博多の名前で栄えた都市。
飛鳥よりも古い歴史をもち、たびたび戦火には見舞われたが、飛鳥のように荒廃してしまったことは一度もない長寿の都市でもある。
近年の福岡市の地下鉄工事にともなって、多くの発掘調査が行われ、古代の砂浜の地層や、中世の元寇防塁や博多商人の貿易遺品などが大量に発掘された。
「博多を掘る」という資料は200巻になり、積み上げると2mに達するそうだ。まさに汗牛充棟である。
そのリーダー格の九州大佐伯教授がまとめられた調査地図がつぎの図である。
(以下の地図はクリックすると拡大される。)
中世からの博多の地域は那珂川と石堂川(比恵川)の間の地帯がそのメインであり、この地図の赤い部分が最近20年間に発掘調査の行われた場所である。
同時に昔の砂地層も計測され、点線のような瓢箪形の等高線の地形が明らかになってきた。
これは平安、鎌倉時代の地形であり、南端部には戦国時代の房州堀の跡も描かれている。
鎌倉時代の推定地形と現在の海岸線を重ねて示した図がこの図である。
13世紀の頃の博多はこの図のように瓢箪形の二つの島にわかれており、北側が息の浜(沖の浜)とよばれ、南側が博多浜とよばれている。息をオキと呼んでいるが壱岐にも通じるようだ。
息の浜はもとの奈良屋小あたりで、神屋宗湛の屋敷などがあった。大友宗麟の時代には近くにキリシタンのため教会が建てられた場所でもある。
さらに遡れば平清盛の時代に湊として整備された場所である。
バテレンの文書によると、ベニスのように豊かで、綺麗な都市であったと書かれているそうだ。
上の地図はその後の15世紀頃の地図で川添昭二(著者代表)「福岡県の歴史」光文館1990 に掲載のものである。
貝原益軒の「筑前国続風土記(1709)」によると、かって博多は箱崎と陸続きであったものを、立花城を拠点にして博多を支配していた大友氏は、家臣臼杵鎮続安房守に命じて、それまで博多南部を流れていた三笠川(比恵川)をつけかえて、まっすぐ海にむけて人工の川(石堂川)をとおし、南側の川の跡を防御のための堀(房州堀)として設けたと記載されている。 安房の名前をとり房州堀と名づけたのだろうか?
洪水対策でもあったようで、万行寺や櫛田神社の西側の入り江地帯(合流点)はすり鉢の底のような沼地だったようだ。今のキャナルシティや下照姫神社付近に鉢底川の名前が残っている。
地下鉄工事のさいにも、幅6mをこえる東西方向の堀が発見され、大友時代の博多が東西の川と南の堀に囲まれた要塞都市であったことが明確になった。
堺とならぶ代表的な自治都市で、大博通あたりの中央道路は瓦敷きの舗装道路がはしっていた。 堺の町の環濠は秀吉により埋められたが、博多の堀は明治初期まで残っていた。
秀吉は1586年に九州統一をし、博多の復興町割りを行った。石田三成と景轍玄蘇の案をもとに博多10町四方の焼け跡の整地と復興を黒田管兵衛が実行した。その頃の地図を今年「はかた部ランド協議会」で作成したのが次の図である。
中央部には博多大水道が整備され、南の水路は房州堀と宗也堀と太屋堀の3つの堀名にわけられている。元比恵川もあり、町名と神社・寺院、商人や豪商の屋敷が詳しく記載されている。
南部の堀は1880年の福博詳見全図にも記載されているが、最近の詳しい復元図が次の図である。九州大の木島先生達により調査されたもので、黒田時代に大幅な修復工事がされたことが明確になったようだ。
http://www.chiikishi.jp/hp/tayori/tayori87.html
南部の房州堀の区画の大半は、初期の博多駅建設に利用され、勿論現在はすべて暗渠になり、見ることは出来ない。
房州堀の水の流れは、もとの地形を考えると、比恵川から那珂川へながれているはずであるが、古老の話では東西に流れていたという伝承がある。
これを裏づけるのが次の古図である。その後の地形の変化で、那珂川と比恵川の中間に小金川と呼ばれる小川ができて、房州堀に流れ込んでいたようだ。その西側部分を鉢底川とよんび、東側部分を緑川とよんだらしい。比恵川には緑橋の名前がのこっている。
これによく似た三宅所蔵図もあるが、少し流れの位置が東寄りになっている。
大正末期の旧博多駅周辺の地図では、駅の南側に鉢底川の流れが記載されている。
この川の流れ方向は降水状況や川底の変化で複雑に変化したであろう。
さらに詳しい昭和13年の地図をつけくわえておく。青色をつけたのが鉢底川である。この頃までは市民に親しまれた川であった。その後上流の工場や住宅開発でかなり汚染され、昭和42年には完全に暗渠化(管渠化)され,今はみれない。
しかも那珂川の川底が高くなったので、ポンプアップして流しているそうだ。
房州堀の南は郡部で犬飼村である。
南の郡部から博多への入り口は辻の堂ひとつで、明和(1770)頃は、上が23軒、下が18軒のさびしい所であった。 この付近の辻の堂作出町の風景図が残っている。河や橋があり、明治22年の福岡市制時でも、97戸、502人だったようだ。
作出町はのち出来町となり、現在は承天寺のちかくに出来町公園として地名が残っている。
その後の鉄道開通工事で辻の堂の大部分が博多駅構内となり、承天寺の境内もだいぶ狭くなった。
現在の航空レーザー測量写真によっても、博多の息の浜や博多浜の地帯は、濃い緑色(2~3m高い)部分で浮かび上がっているのが下の写真でわかる。
博多駅周辺にたびたび水害がおきるのは、昔の地形を思い出させるためであろうか?
参考文献
白水晴雄著「博多湾と福岡の歴史」梓書房2000
(著者は学生時代のヨット部仲間:九州大名誉教授、地質学)
井上精三著「福岡町名散歩」葦書房1983
飛鳥よりも古い歴史をもち、たびたび戦火には見舞われたが、飛鳥のように荒廃してしまったことは一度もない長寿の都市でもある。
近年の福岡市の地下鉄工事にともなって、多くの発掘調査が行われ、古代の砂浜の地層や、中世の元寇防塁や博多商人の貿易遺品などが大量に発掘された。
「博多を掘る」という資料は200巻になり、積み上げると2mに達するそうだ。まさに汗牛充棟である。
そのリーダー格の九州大佐伯教授がまとめられた調査地図がつぎの図である。
(以下の地図はクリックすると拡大される。)
中世からの博多の地域は那珂川と石堂川(比恵川)の間の地帯がそのメインであり、この地図の赤い部分が最近20年間に発掘調査の行われた場所である。
同時に昔の砂地層も計測され、点線のような瓢箪形の等高線の地形が明らかになってきた。
これは平安、鎌倉時代の地形であり、南端部には戦国時代の房州堀の跡も描かれている。
鎌倉時代の推定地形と現在の海岸線を重ねて示した図がこの図である。
13世紀の頃の博多はこの図のように瓢箪形の二つの島にわかれており、北側が息の浜(沖の浜)とよばれ、南側が博多浜とよばれている。息をオキと呼んでいるが壱岐にも通じるようだ。
息の浜はもとの奈良屋小あたりで、神屋宗湛の屋敷などがあった。大友宗麟の時代には近くにキリシタンのため教会が建てられた場所でもある。
さらに遡れば平清盛の時代に湊として整備された場所である。
バテレンの文書によると、ベニスのように豊かで、綺麗な都市であったと書かれているそうだ。
上の地図はその後の15世紀頃の地図で川添昭二(著者代表)「福岡県の歴史」光文館1990 に掲載のものである。
貝原益軒の「筑前国続風土記(1709)」によると、かって博多は箱崎と陸続きであったものを、立花城を拠点にして博多を支配していた大友氏は、家臣臼杵鎮続安房守に命じて、それまで博多南部を流れていた三笠川(比恵川)をつけかえて、まっすぐ海にむけて人工の川(石堂川)をとおし、南側の川の跡を防御のための堀(房州堀)として設けたと記載されている。 安房の名前をとり房州堀と名づけたのだろうか?
洪水対策でもあったようで、万行寺や櫛田神社の西側の入り江地帯(合流点)はすり鉢の底のような沼地だったようだ。今のキャナルシティや下照姫神社付近に鉢底川の名前が残っている。
地下鉄工事のさいにも、幅6mをこえる東西方向の堀が発見され、大友時代の博多が東西の川と南の堀に囲まれた要塞都市であったことが明確になった。
堺とならぶ代表的な自治都市で、大博通あたりの中央道路は瓦敷きの舗装道路がはしっていた。 堺の町の環濠は秀吉により埋められたが、博多の堀は明治初期まで残っていた。
秀吉は1586年に九州統一をし、博多の復興町割りを行った。石田三成と景轍玄蘇の案をもとに博多10町四方の焼け跡の整地と復興を黒田管兵衛が実行した。その頃の地図を今年「はかた部ランド協議会」で作成したのが次の図である。
中央部には博多大水道が整備され、南の水路は房州堀と宗也堀と太屋堀の3つの堀名にわけられている。元比恵川もあり、町名と神社・寺院、商人や豪商の屋敷が詳しく記載されている。
南部の堀は1880年の福博詳見全図にも記載されているが、最近の詳しい復元図が次の図である。九州大の木島先生達により調査されたもので、黒田時代に大幅な修復工事がされたことが明確になったようだ。
http://www.chiikishi.jp/hp/tayori/tayori87.html
南部の房州堀の区画の大半は、初期の博多駅建設に利用され、勿論現在はすべて暗渠になり、見ることは出来ない。
房州堀の水の流れは、もとの地形を考えると、比恵川から那珂川へながれているはずであるが、古老の話では東西に流れていたという伝承がある。
これを裏づけるのが次の古図である。その後の地形の変化で、那珂川と比恵川の中間に小金川と呼ばれる小川ができて、房州堀に流れ込んでいたようだ。その西側部分を鉢底川とよんび、東側部分を緑川とよんだらしい。比恵川には緑橋の名前がのこっている。
これによく似た三宅所蔵図もあるが、少し流れの位置が東寄りになっている。
大正末期の旧博多駅周辺の地図では、駅の南側に鉢底川の流れが記載されている。
この川の流れ方向は降水状況や川底の変化で複雑に変化したであろう。
さらに詳しい昭和13年の地図をつけくわえておく。青色をつけたのが鉢底川である。この頃までは市民に親しまれた川であった。その後上流の工場や住宅開発でかなり汚染され、昭和42年には完全に暗渠化(管渠化)され,今はみれない。
しかも那珂川の川底が高くなったので、ポンプアップして流しているそうだ。
房州堀の南は郡部で犬飼村である。
南の郡部から博多への入り口は辻の堂ひとつで、明和(1770)頃は、上が23軒、下が18軒のさびしい所であった。 この付近の辻の堂作出町の風景図が残っている。河や橋があり、明治22年の福岡市制時でも、97戸、502人だったようだ。
作出町はのち出来町となり、現在は承天寺のちかくに出来町公園として地名が残っている。
その後の鉄道開通工事で辻の堂の大部分が博多駅構内となり、承天寺の境内もだいぶ狭くなった。
現在の航空レーザー測量写真によっても、博多の息の浜や博多浜の地帯は、濃い緑色(2~3m高い)部分で浮かび上がっているのが下の写真でわかる。
博多駅周辺にたびたび水害がおきるのは、昔の地形を思い出させるためであろうか?
参考文献
白水晴雄著「博多湾と福岡の歴史」梓書房2000
(著者は学生時代のヨット部仲間:九州大名誉教授、地質学)
井上精三著「福岡町名散歩」葦書房1983
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