2021年12月21日火曜日

原の辻遺跡の衰退

 原の辻遺跡は、弥生時代前期後葉(紀元前三世紀後半頃)に集落が形成され、弥生時代中期前半(紀元前二世紀前半頃)に環濠をもつ大集落として成立する。

原ノ辻遺跡の場所

原ノ辻遺跡
中国・朝鮮半島、日本列島各地からもたらされた品々は、「イキ国」の国邑として対外交渉・交易の拠点であったことを示している。

楽浪郡、三韓の土器や貿易器具などの出土品が多く、鉄製品もある。


大陸の洛陽からの交易品も出土している。

しかし、古墳時代前期の四世紀中頃に交易の基盤を失って解体・消滅する。

このように、原の辻遺跡は約六〇〇年間(国立歴史民俗博物館の年代観では約七五〇年間)の永きにわたって繁栄したが、水田生産を基盤としたいわゆる「弥生農村」とは異なった姿をもっている。

 内陸の中央にある都城(たとえば纏向遺跡)を政治的な都市として捉えていく考え方(陸地史観)に対して、海からみた新しい歴史像を提唱する文明史家の川勝平太氏の歴史観(海洋史観)からみれば、原の辻遺跡は港湾をもつ商業的な都市の原型としてみることができるのではないかと考えられる。
また、東洋史学者の生田滋氏は、貿易港の機能を基礎として成立した都市を「港市」とし、この港市を基盤とした国家を「港市国家」と呼んでいる。




このようにみていくと「イキ国」は、「港市国家」「海洋通商国家」とも呼ぶべき性格のクニであり、伊都国のような王墓遺跡は皆無で、北部九州地域のクニグニ(「ツクシ連合」)と連繋し、都市国家のような同盟・連盟関係のなかで、通商交易活動を活発に行なっていたことが考えられる。
しかし、三世紀の邪馬台国時代(原の辻遺跡第Ⅳ期)には、「ツクシ連合体制」は解体しており、「一支国」は「邪馬台国連合体制」に組み込まれて、その一員として「南北市糴」の交易活動を行っていたことが推測される。
 三世紀中頃に倭国を訪れた魏の帯方郡使は、当時の日本の情況を見聞し、「一支国」についても復命報告したと考えられる。『魏志』倭人伝には、その時点の資料に基づいて、三世紀の「一支国」の姿が記録されていたことが推察される。

その後、おもな交易国の楽浪郡が消滅し、四世紀中頃には、沖ノ島祭祀が行われるようになり、直接宗像への航路が開かれて、原の辻遺跡も解体・消滅する。

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