2021年12月24日金曜日

百済の興亡史と日本の関係

 伽耶争奪と遷都

継体天皇6年(512)には、高句麗によって国土の北半分を奪われた百済から任那4県の割譲要求があり、大伴金村は五経博士の受け入れを条件にこれを承諾した。しかし、これが後に金村失脚の原因となる。

継体天皇21年(527)に筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)の乱が起こり、金村は継体天皇の命を受け物部麁鹿火(もののべのあらかい)を派遣し鎮圧させるなど功績を上げた。しかし、欽明天皇期に新羅が任那地方を併合する事件が起きた際、先の任那割譲の際に金村が百済から賄賂を受け取ったと物部氏らから嫌疑をかけられ失脚。武烈以降4代の天皇を即位させた金村は、ついに最高権力者の座を降りることになる。晩年は摂津国住吉郡(現在の大阪市住吉区帝塚山)に住み、波瀾の生涯を終えた。当地にある帝塚山古墳は、金村とその子の墳墓と伝えられている。

武寧王の跡を継いだ聖王は回復した国力を背景に538年都を泗沘(現・忠清南道扶余郡)に遷した。仏教を導入し、倭国にも伝えた。
泗沘錦江沿いにある都市で、錦江下流域の沖積平野を見下ろす丘陵地帯であり、水陸の交通の要衝であった。


伽耶地方では百済が西側から勢力を広げる一方、同じく伽耶の東方から勢力を拡張していた新羅との間で軋轢が生まれた。

伽耶地方の中心的国家であった金官国524年に始まった新羅の伽耶地方侵攻に対し、倭国へ救援要請を行った。これを受けた倭国は近江毛野臣を派遣したが、527年九州で発生した磐井の乱により渡海できず、到着は529年になった。

同じく伽耶の一国である安羅に到着した毛野臣は調停を目指して百済と新羅の双方に参会を求めたが、百済は新羅共々、倭国の調停に大きな期待を置いておらず、毛野臣は最終的に有効な手段を講じることはできないまま、532年には金官国が滅亡した。

一方、安羅は倭国に頼るのを諦め毛野臣を排除するとともに、百済に援軍を要請し、結果531年に百済軍が安羅に駐屯することとなった。

新羅の強大化と外交関係

伽耶を巡って新羅との利害関係の不一致が顕在化する一方、北側では550年頃、国境地帯の城の奪い合いを切っ掛けに高句麗と全面的な衝突に入り、百済の情勢は極めて悪化した。この時期に倭国に向けて兵糧、武具、軍兵の支援を求める使者が矢継ぎ早に派遣されたことが『日本書紀』に見える。551年には一時的にかつての都、漢城(ソウル)を高句麗から奪回することに成功した。しかし翌552年、理由不明ながら百済は漢城の放棄に追い込まれた。変わって新羅が漁夫の利を得る形で漢城を占領した。

このことは百済と新羅の関係を大きく悪化させたと推定される。新羅に対抗するため、聖王は倭国からの支援を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送る一方で、見返りとしてより一層の軍事支援を求めた。



大伽耶、倭国からの援軍を得た聖王は554年新羅の函山(管山)城を攻撃したが、伏兵にあって戦死した。

百済では新たに威徳王が即位したが、国王戦死の失態は百済に大きな打撃を与え、王権の混乱を招き、562年までに伽耶地方の大半が新羅の手に落ちることとなった。

倭国の援軍の筑紫物部軍も多くの戦死者を出した。そして敗残兵の2世、3世の物部武士が、伽耶や百済の旧領土には多数残っていたという。

威徳王は王弟恵を倭国に派遣し、親百済政策の維持と援軍の出兵を働きかけたが、倭国の有力者蘇我稲目は親百済姿勢は維持したものの国内を重視し、援軍の派兵には同意しなかった。

とは言え、新羅の強大化は百済のみならず、倭国にとっても好ましいものとは映らなかったため、伽耶地方の制圧を巡り倭と新羅の関係は悪化し、小競り合いが発生していた。

百済も伽耶地方の奪回を目指したため倭国との伝統的な関係は維持された。しかし、新羅が「任那の調(みまなのみつき)」を倭国に送付するようになると、倭国は当面これに満足し、百済が577年に新羅に侵攻した際には軍事援助は得られなかった。威徳王は結局伽耶の奪回を果たすことはできず、579年を最後に新羅への積極策を改め、以後武力行動に慎重になった。

隋唐の成立と朝鮮半島情勢

589年が中国を統一し、長きに亘って続いた南北朝時代が終わると、朝鮮半島情勢も大きな影響を受けた。

百済は589年にいち早く使者を建てて隋の統一を慶賀して隋との関係構築に努め、598年の隋の高句麗遠征の際にはそれに参加した。

しかし、隋軍を撃退した高句麗は百済領への侵攻を行うようになり、百済は隋に対して更なる高句麗征討を要請した。

一方で新羅への攻撃では百済は高句麗と連携し、更に倭国とも協力した。




602年に百済は新羅の阿莫山城(全羅南道南原郡雲峰面)を攻撃する一方、603年には高句麗が新羅領北漢山城(ソウル市鍾路区新営)を攻撃し、倭国は「任那の調」の実施を求めて591年602年筑紫への駐兵を行い、新羅への軍事的圧力をかけた。この時に倭国から百済と高句麗に新羅攻撃での連携を行うための使者が派遣されていることが『日本書紀』に見える。

征新羅大将軍(筑紫への駐兵

初見は推古8年(西暦600年)2月で、新羅に滅ぼされた任那日本府を救援するために新羅へ派遣された。このとき蘇我氏の一族である境部摩理勢(境部臣)が征討大将軍に、穂積祖足(穂積臣)が副将軍に任じられ、約1万の軍勢で新羅に出征した。境部摩理勢は名目上で、実際に出征はしていない。結果、五つの城を攻め落とし新羅を降伏させ、さらに多多羅(たたら)、素奈羅(すなら)、弗知鬼(ほちくい)、委陀(わだ)、南迦羅(ありひしのから)、阿羅々(あらら)の6つの城を攻略して、倭国(日本)への朝貢を約させた。しかし倭国の軍が帰国すると新羅は再び任那に攻め込んだ。

推古10年(602年)2月、聖徳太子の弟来目皇子が征討将軍として軍2万5千を授けられ、4月に軍を率いて筑紫国に至り、島郡に屯営した。しかし、来目皇子が病を得て新羅への進軍を延期とし、そのまま来目皇子は征討を果たせぬまま推古11年(603年)2月4日、筑紫にて薨去し計画は頓挫した。古賀市船原古墳から、当時の軍馬の遺品らしきものが多数出土している。

推古11年(603年)4月、来目皇子の異母兄当麻皇子が征討将軍に任命される。同年7月3日、難波より出航し、7月6日に播磨に到着するが、妻の舎人皇女が明石に薨去したため、当麻皇子は朝廷に帰還し、計画は潰えた。

北方では、高句麗が突厥との同盟を意図したことから関係が悪化していた隋が、611年613年614年の3回に亘り高句麗への遠征を行ったがこれを制圧することはできなかった。度重なる高句麗遠征と国内での大規模土木事業などへの不満から618年には隋朝が倒れ、にとって代わられた

百済は611年の隋による高句麗遠征の際には、高句麗が動けないことに乗じて新羅を攻撃し、一城を占領した。

624年には百済は高句麗、新羅と同じく唐に入朝し、冊封を受けている。

百済滅亡

642年、前年に即位した百済の義慈王が自ら兵を率いて新羅に侵攻し、40余りの城を陥落させて新羅に大打撃を与える事に成功した。

この時落城したのは主に伽耶地方の城であったことが『三国史記』「新羅本紀」にあり、百済は長年追求してきた伽耶地方の奪取を達成することができた。

この時百済は後に新羅王となる金春秋の娘婿とその子供らを全員殺害し、精神的にも新羅に大きな打撃を与えた。

643年には高句麗と和睦し、かつて高句麗との争奪戦の中で新羅に掠め取られた漢城の奪回を目指した。

義慈王は国内でも専制的な体制の構築を目指し、独裁権の強化と反対派の粛清を進めたと見られることが記録から読み取れる。

同じ642年には高句麗でも淵蓋蘇文がクーデターにより実権を握り、新羅でもやはり同じ年、善徳女王を中心として金春秋、金庾信の3名の結束による権力体制が成立した。

倭国では舒明天皇が死に皇極天皇が即位するとともに蘇我蝦夷蘇我入鹿親子が実権を握り、「陵(みささぎ)」と称する墓の建設を開始している。こうして642年頃を境に各国で権力の集中が進んだ。

百済は高句麗と協同して新羅への侵攻を続け、善徳女王、そしてその死後に新羅王となった金春秋(武烈王)は唐への援軍要請を繰り返した。

これを受けた唐は、高句麗征討においてその同盟国となっていた百済を倒し、高句麗の背後を抑える意図もあり、遂に660年に水陸合わせ13万とされる大軍を百済へ向けて差し向けた。呼応した新羅も金庾信の指揮の下出兵した。

660年3月、唐の蘇定方将軍の軍が山東半島から海を渡って百済に上陸し、百済侵攻を開始した。百済側は対応を巡って方針がまとまらず、有効な戦略を打ち立てることはできなかった。

個別の戦闘では奮闘した例もあったものの、7月には王泗沘が占領され、義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏した。こうして百済は滅亡した。


百済の武将、鬼室福信は、百済復興の兵をあげて、各地で善戦していた。
倭国は、20年間預かっていた百済の皇子、扶余豊璋を帰国させて、鬼室と一緒に百済復興を計画した。 

また倭国で数万の兵士と数百の船をあつめ、その救援部隊をおくる計画をたてた。
そのため九州朝倉に朝廷の宮を、遷都に近い形でうつした。斉明天皇・中大兄皇子らの挙国体制であった。



滅びた百済を再度復興しようとした倭国の白村江の戦も、663年8月28日、唐・新羅水軍に大敗して終わった。

敗北の原因の一つは、扶余豊璋が鬼室福信と仲たがいをして、鬼室福信を殺してしまったことである。
また白村江の海域は干満の差が7mもあり、遠浅状態になって、倭国の船がうごけなくなったことであった。 唐の海軍は現地を知っていて、砂地での戦闘準備をしていた。

唐軍は675年に撤収し、新羅によって半島統一(現在の朝鮮半島の大部分)がなされた。

敗戦後の倭国の防御態勢については、別項で述べる。

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