2021年12月6日月曜日

ゼロ戦の設計思想

 ゼロ戦が初めて日本海軍に制式採用(装備として正式に採用)されたのは皇紀2600年(昭和15年:1940年)のこと。



格闘戦(戦闘機同士の戦闘)に強い強力な武装、日本から離陸して中国大陸の奥地まで爆撃機の護衛任務につき、しかも帰還できる長大な航続距離、旋回性能などの常識はずれな運動性能などを要求する、当時の日本では実現不可能とも思われた戦闘機の開発要請が、日本海軍から三菱の堀越二郎氏に出された。

500 km/h 超の最高速度、3000Kmの航続距離(航続時間は6時間)20ミリ機銃2門の重武装、優れた運動性能。

強力な武器を搭載すれば機体は重くなり航続距離と運動性能が犠牲になる。逆に航続距離や運動性能を高めるためには機体を軽くする必要があるため、重武装など詰めるはずがない。

日本海軍からの無理筋な要請に、三菱の主任技師だった堀越二郎氏はどのように応えたか。



それは、「全ての防御と耐久性を犠牲にすること」だった。

すなわち、海外製品より出力的に劣ったエンジンで航続距離を叩き出すために、機体重量を極限まで軽くする。

しかも当時、日本には強力な航空機用のエンジンがなく、欧米の航空機に比べエンジンの出力は技術的に極めて劣っており、欧米の戦闘機と互角に戦うだけの出力も速度も期待できないことから、そもそも格闘戦で敵戦闘機を一撃必殺にする、重武装を積むというだけでも無理筋の話だった。

そこで、機体を極限まで軽くした分、敵の軍用機を一撃必殺にできる強力な重武装も搭載できるようにすること。

このような答えを用意して、新型戦闘機の設計・開発に取り組み、その回答から産まれた戦闘機が「ゼロ戦」。

敵の攻撃に対する防弾設備など一切なくす。さらに戦闘機の骨組みに至るまで穴を開け、機体の軽量化をg単位で追求し、戦闘機本体の耐久性は非常に脆弱なものとした。防風ガラスもまだプラスチックのない時代に、少しでも軽くする有機材料を使っていた。

 私は昭和19年に3ケ月間学徒動員で働いたのが、三菱化成黒崎事業所(福岡県北九州市)である。ゼロ戦の風防ガラスを作っていた。プラスティックはまだ無い時代で、メタアクリル酸メチルエステルという有機の素材であった。

だから水平方向の運動性能(旋回)は極めて優秀だが、垂直方向(上昇・降下)の荷重に耐えられない機体で、急降下時には主翼がもげるため、急降下による攻撃・離脱が出来ない機体となった。

また防弾性能がないから、敵の機銃弾が主翼をかすめただけで火だるまとなり、またパイロットの座席背後に防弾板がないため、一度敵に背後を取られたら最後、確実に撃墜される極めて危険な機体となった。

その姿はまるで、切れ味鋭い一撃必殺の日本刀一本だけを片手に、もろ肌を見せながら敵の集団に突っ込むような、時代劇の剣客のような思想の戦闘機。

堀越二郎氏の講演を直接聞いたことはないが、開発リーダーをつとめたゼロ戦の開発記録の本を読んだ。 その中には多くの苦労が記録されている。軽量化のため発生する振動問題を解析して協力された松平精氏の名前が何回もでてきた。松平氏が戦後 IHIの専務時代に何回も逢った方で、本人からその内容をきいていたので詳しく理解できた。

またロケット開発で有名な糸川英夫先生も、当時中島飛行機の方で同様の開発研究をされていた。彼の講演では、パイロットの意見を聞いて制御性能の向上をしたことなどの話をきいた。

最近YOUTUBEに、ゼロ戦の話が5部もあるのを知り、全部みてみた。 機体、エンジン、操縦性、銃撃性、整備性など各種の議論が出ている。 当時の技術者と操縦者の苦心がよく理解できた。

日本的美意識」が生み出したとも言える、他人事であれば美しく思えるものの、我が事として捉えれば恐怖が先走るような、非常な決意のもとに産まれた戦闘機だった。

その初陣はとても華々しいもので、1940年中国大陸における空中戦で、中国大陸上空を編隊飛行中のゼロ戦13機に、中国軍のソ連製戦闘機、I-15、I-16の27機が襲いかかった。

陸上戦闘以上に数がモノを言う当時の空中戦。敵は日本の戦闘機に比べ倍以上の数であったが、結果としてゼロ戦の13機編隊は、中国軍機27機を全機撃墜。しかも日本側には被害は皆無という奇跡的な戦果を収めた。

パイロットの練度の高さもさることながら、ゼロ戦という日本的思想が結実した、信じがたい戦果を上げることとなった。

そして太平洋戦争の海戦の劈頭、熟練パイロットの神業のような操縦技量にも支えられた日本海軍のゼロ戦は、連合国側の戦闘機、爆撃機、攻撃機を次々と撃墜し、「ゼロショック」で世界を震撼させることとなった。




しかし、その状況も長くは続かず、防御性能が低いということは、まぐれの一発が命中するだけでもベテラン搭乗員が命を失い、何にも代えがたい技量豊富なパイロットを失うという現実が続く。

また、どれほど運動能力に優れていても、ゼロ戦は急降下が出来ない脆弱さを持っていることが判明して、ゼロ戦に遭遇すれば急降下で逃げてしまえばいいので、次第にゼロ戦は全く戦果を上げることができなくなった。

敗戦前の3月に、福岡にも艦載機の攻撃があり、志賀島の上空でグラマンとゼロ戦の空中戦がはじまった。固唾をのんで見ていると、1機が火をふいて螺旋状に落ちはじめた。やったと思ったら、その落下する翼に日の丸が見えた。ゼロ戦のパイロットも、もう初心者ばかりの時代になっていた。

それどころかパワーに勝る米軍戦闘機に相手にしてもらえず、開戦から1年後には、全く戦果を挙げられない状況に追い込まれた。最後は体当たりの特攻機としての利用であった。

熟練パイロットの多くを失ったことと呼応するように、日本海軍は攻勢から守勢に転じ、やがて1944年、終戦に先立つこと1年前のレイテ沖海戦において、日本海軍は組織として完全に壊滅した。



そのような日本人の文化や思想の結実して産まれたゼロ戦は、超人的な先人の活躍で世界を代表する兵器として名を残したが、それは属人的であったがゆえに、極めて短期間のうちに、まるで春の陽の桜のように、とても短期間のうちに歴史上から姿を消した。

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