丁未の乱 (ていびのらん)
Wikipedia記事に、系図や地図と補足追記
用明天皇2年4月2日(587年)、用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信奉したいと欲し、群臣に議するよう詔した。
物部守屋と中臣勝海は「国神に背いて他神を敬うなど、聞いたことがない」と反対した。
(守屋の妹が馬子の妻であり、若いころは友好関係であった。守屋も極端な廃仏思想ではなかったという説もある。)
馬子は「詔を奉ずるべき」とし、穴穂部皇子に僧の豊国を連れて来させた。
守屋は睨みつけて大いに怒った。史(書記)の毛屎が守屋に群臣たちが守屋の帰路を断とうとしていると告げた。
守屋は朝廷を去り、別業のある阿都(河内国)へ退き、味方を募った。排仏派の中臣勝海は彦人皇子と竹田皇子(馬子派の皇子)の像を作り呪詛した。
しかし、やがて彦人皇子の邸へ行き帰服を誓った(自派に形勢不利と考えたとも、彦人皇子と馬子の関係が上手くいっておらず彦人皇子を擁した自派政権の確立を策したとも言われている)が、その帰路、舎人迹見赤檮が中臣勝海を斬った。
守屋は一族の物部八坂、大市造小坂、漆部造兄を馬子のもとへ遣わし「群臣が我を殺そうと謀っているので、阿都へ退いた」と伝えた。
4月9日、用明天皇は崩御した。
守屋は穴穂部皇子を皇位につけようと図ったが、6月7日、馬子は炊屋姫(のちの推古天皇)の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺した。翌日、宅部皇子を誅した。
(用明天皇の後継者争いが、守屋と馬子の対立の最大の原因と考えられる。穴穂部皇子の乳母は、物部系の人物であったという。)
7月、馬子は群臣にはかり、守屋を滅ぼすことを決めた。馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の守屋の館へ向かった。
守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。その軍は強盛で、守屋は朴の木の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけた。
皇子らの軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。
これを見た厩戸皇子は仏法の加護を得ようと白膠の木を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔を作り仏法の弘通に努めると誓った。
馬子は軍を立て直して進軍させた。
迹見赤檮が大木に登っている守屋を射殺した。寄せ手は攻めかかり、引き続き守屋の子らを殺害し、守屋の軍は敗北して逃げ散った。
生き残った守屋の子のうち片野田と辰狐兄弟は、前者は筑前国鞍手に、後者には肥前国松浦に流罪されたという。
この戦いは丁未の乱と呼ばれる。
八尾市南太子堂には迹見赤檮が物部守屋を射たときの矢を埋めたとされる鏑矢塚、その南西には弓を埋めたとされる弓代塚がある(迹見赤檮発箭地史蹟、とみのいちいはっせんちしせき)。
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