2021年12月3日金曜日

遣唐使の歴史

日中関係の歴史は遣隋使や遣唐使からはじまるが、その研究者は案外少ないらしい。

かって奈良大学の東野教授(岩波新書:遣唐使の著者)の講演をきいたことがあり、最近テレビの歴史探偵でみたことをまとめてみる。


遣隋使は600年から4回、遣唐使は630年から19回派遣されており、20回目の894年の計画は、菅原道真の意見で停止されている。
約300年続いたこの制度は、大和で計画・人選・実行されたが、最終的に日本を離れる場所は九州であった。
航路には北路(新羅道)と南路があり、それぞれ対馬と五島から出発した。
遣唐使はすべて南路で往復した。

船の大きさは全長30m、乗船者数は最大160名であった。




五島の出発前の停泊地は、風待ちのため大きな入江で、周囲に切り立った断崖のある場所がえらばれた。
文献では、川原、青方、相河、福浦などの地名があり、東野教授は調査されたが、現地に確実な証拠となるものは発見できなかったようだ。
五島列島の野崎島には、航海の安全祈願の神社が残っている。


季節風の研究で、渡航しやすい時期は、8月、9月、10月ということが分かり、その時期の渡航が多かった。

船も大波に耐えられるように、隔壁付きに改造されていた。


遣唐使の難破事故は多かったようなイメージが強いが、以上のような工夫で、案外成功率が高く、行きは92%、帰りは逆風のため76%であった。

渡海した人物は、政府の使者、僧侶、學者、留学生などである。
著名人をとりあげると、つぎの3人があげられる。

吉備真備も、現地で石碑の書をかいていることがわかり、書にすぐれていたため副業としていたことが判明した
日本國朝臣備の署名

多くの渡航者が、沢山の中国文献や写経を持ち帰ったので、渡航ルートをブックロードと名付けていた。

最近発掘された石碑から知られたのは、無名の留学生で客死した「井真成」という人物で、優秀で中国で勉学に努めていたが、病死したことが記録されていた。
井真成の石碑文

出身地か不明だが、九州では井氏が圧倒的に多い熊本県産山村出身説がもりあがっている。

遣唐使の依頼をうけて、中国から仏教布教のため来日した鑑真大和上の唐招提寺は有名だ。
何回も渡航に失敗し、失明しながら沖縄につき、太宰府にはいった。
福岡県も江蘇省と友好協定を結んでおり、鑑真大和上講演会がひらかれたことがある。
奈良唐招提寺執事の西山明彦氏、早稲田大学木下俊彦氏、鑑真の出身地の大寺方丈の能修氏の3人によるパネル討議で、多様な話をきけた。





和尚、和上、法師、方丈など僧侶の呼び名はいろいろだが、大和上の称号をもらった鑑真は最高位である。
鑑真大和上を、鑑真大和に上がるとよんだ学生がいたとか。
中国では玄奘が仏教を輸入し、鑑真が仏教を輸出したことになっている。
松尾芭蕉が鑑真の生誕千年紀の1688年4月8日に唐招提寺を訪れて
「若葉して 御目の雫 ぬくはばや」と詠んだ。
鄧小平が唐招提寺を訪れたとき、鑑真大和上の像をみて、1200年も大事に保存されているのに感激した。
故郷の大明寺に2年前、唐招提寺と同じ金堂ができた。
早稲田大学生グループが「鑑真記念逆渡航の交流事業」で、鑑真の故郷の訪問を行った。
等々の話がでた。日中関係友好化の一つの種になれば幸いである。





1 件のコメント:

  1. 別用で見れなかったので助かります。ありがとうございます。

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