2021年12月20日月曜日

白村江の敗戦とその後の九州

 

『白村江』鈴木治著、学生社

・現地を歩いて考える。
志賀島の石碑




《沖つ鳥 鴨という船の還り来ば 也良の埼守 早く告げこそ》
《沖つ鳥 鴨という船は也良の埼 廻みて榜ぎ来と 聞えこぬかも》
筑前国守でもあった山上憶良は防人の心情を詠んだ。
白村江(天智2年、663年)の敗戦の後、東国から防人が集められ対馬、壱岐、博多に配置された。
どこに配置されたかは詳細ではないが、唯一、この歌は博多湾に浮かぶ能古島(福岡市西区)に防人が配置されていたと特定できるもの。




山上憶良にとって、家族と離れて見知らぬ西国に行かされた防人の心情を貧窮問答歌同様に歌にすることで庶民の苦しみを代弁したかったのだろう。本書は白村江の敗戦から「壬申の乱」という皇位継承の戦いに発展した問題と、仏教導入、寺の造営についての歴史を解釈したもの。
興味深いのは、天武朝、持統朝が、戦勝国の唐の傀儡政権であったという著者の考え
大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)において日本は敗戦。連合国軍代表のアメリカが占領統治を仕切ったが、今尚、時の首相が交代すればまずもってアメリカ詣でをするのが習いになっている。
この観点から白村江の戦いに敗戦した大和朝廷は唐の傀儡政権であったという論理が展開されている。
今の学校教育における歴史授業では暗記中心なので、背景を考える、仮定する、推察するということはやっていないので、これは驚きだった。
 また、「遠の朝廷」と呼ばれた大宰府防衛のために「水城の堤防」「大野」「椽」の城を亡命百済人である憶礼福留(おくらいふくりう)と四比福夫(しひふくお)が築いたということが出ている。

太宰府羅城





白村江の敗戦のあと、大宰府を大きく囲む防御網がつくられ、最近新しい土塁の一部が筑紫野市前畑でみつかったことを報じていた。
前畑は字名で道路地図にはでていない。ネットで調べたら、西鉄大牟田線筑紫駅周辺だ。水城だけでなく、大工事だった。



蒙古(元寇)の軍勢が攻めてくる以前から、北部九州は半島、大陸からの侵略に晒された地域であることをあらためて認識した次第だった。
山上憶良と同時期、大宰帥として大宰府に赴任していた大伴旅人の歌だが、任地で妻を亡くした。
《ほととぎす来鳴きとよもす卯の花の共に来しと問はましものを》
その弔問使である石上堅魚(いそのかみかつお)が大伴旅人に向けて詠んだ歌。その場所は防衛拠点のひとつである「椽」の城でのことである。
一説には、この歌は都で政変(後の壬申の乱)が起きそうだから一緒に帰りましょうよと大伴旅人に問うたもので、「ほととぎす」に掛けて暗号化したものと言われている。

ただ、本書で不思議なのは、白村江の戦いで捕虜になった大伴部博麻は、天武朝の次の持統朝に30年ぶりに帰国して官位を授けられ、莫大な恩賞を賜っていることである。
唐が傀儡政権を企てようとしていると報告をするために、自らの身を奴隷として売らせて仲間の帰国費用に充当させたからだが、天武、持統朝が唐の傀儡政権であるならば、大伴部博麻は、唐の国で殺されていてもおかしくはない。
ここは、自身で考えたい。
 大伴部博麻の碑(八女市)
大伴部博麻は、唐の傀儡政権の思想に洗脳されて、帰国したのかもしれない。
遣唐使の廃止は、菅原道真の時代になってからである。

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