杉山家と筥崎宮は特別な関係があったようです。
後年、久作の父、茂丸が博多湾築港を大正六年に思い立ちましたとき、博多湾の漁民達を説得して、この茂丸の計画に協力したのが筥崎宮の二代目の宮司であった葦津氏の二男、葦津耕次郎氏でした。
そして、この博多湾築港株式会社は、筥崎宮の海辺に会社の事務所があり、後に杉山町という名が残されていました。
宗像郡神与村八並部落と杉山家との関係も不明であり、筥崎宮との関係も、後に葦津家と遠縁になったことは明らかでありますが、この当時、如何なる縁故があったのか、まだ明らかでありません。
加藤司書が、杉山家六代目の杉山啓之進を鉄砲頭として率い、黒田藩の長崎奉行として、ロシア艦プチャーチンの長崎事件に馳けつけ、後に福岡の舞鶴城が海岸から近く、外国軍艦の砲撃の射程内にあったので、犬鳴山塊に山城を築き、万一外国の侵入の際、黒田藩の人々や、博多の商人達も収容し、上陸した外国軍隊にゲリラ戦を行う計画をもって準備していました。
【※嘉永六年(1853)六月にアメリカ東インド艦隊司令官のペリー Matthew Calbraith Perry (1794-1858) が浦賀に来航した翌月、ロシア極東艦隊司令長官プチャーチン Evfimii Vasilievich Putiatin (1803-83) が黒船四隻を率いて長崎に現われた。当時ロシアは英仏両国との間で戦争中であったが、米国が日本と和親条約を結んだことを知って来航、日露和親条約や日露通商を求めに来たのである】
その準備の根拠地とした、宗像郡の清滝部落や舎利蔵で、各種の準備をしていました。
この計画の外郭として、宗像神社や、その中津宮のある大島を外国軍が占領して来ることを予想して、大島島司に、杉山啓之進がなっていました。
このようなことで、宗像郡神与村八並部落に何等かのかかわりがあったのかも知れません。
筥崎宮との関係も、或いは、このような明治維新前の筑前勤皇党に関する御一新運動にかかわりがあったのかも知れません。
筥崎には、筥崎八幡宮を中心とする、「筥崎党」という部落の人々のグループがあり、福岡博多とも異った、大友宗麟の関係者が多かったので、大分の方の言葉に近いものがあったということです。
筥崎町に網屋町というところがありますが、ここに「網屋天神、稲荷」ともいうべき一群の神社の境内があります。
ここは昔は海岸であって、良い水が泉になって出るところで、茶屋があったと申されます。
今は井戸になって残っているようですが?
長州の高杉晋作等は、ここの筥崎の浜に上陸し、筥崎党の被護のもとに、平尾の野村望東尼のもとへ行ったとか、
また、公卿五卿も山口-下関-芦屋-箱崎-宇実-太宰府と行ったとき、ここに上陸して行ったという伝説もありますので、杉山家が何かの折、度々居を此処に定めたのも、このような裏面の縁故があったのかも知れません。
今の杉山家は、香椎村に住んでいますので香椎宮の氏子となっていますが、前は筥崎宮の氏子であったようで、茂丸が何かあれば、色々のものを奉納しています。
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