日本系譜出版会の編集記事要約
A)垂仁天皇の子孫説
備前国和気郡内の和気郷に「布知乃」と表記される地名が和名抄にあり、これが藤野と記録されるようになり、藤野縣(あがた)となった。
縣は大化改新以前の地方制度で大和朝廷の直轄地である。
藤野縣は備前・美作の両國にまたがる縣であり、その後近くの二郡を加えて藤原郡と称し、さらに藤野縣と改称された。
11代垂仁天皇の子孫が、神功皇后の三韓征伐に従軍して戦功をあげ、藤野縣を賜り、藤野氏を名乗った。その子孫が和気清麻呂であり、その子孫が寛永16年まで続いている。
B) 清和源氏始祖の説
56代清和天皇の子孫は、清和源氏であり、その始祖の源経基は武蔵国を領有、その子孫は駿河や能登や佐渡などに分散する。
子孫の源忠清が若狭にすみ、若狭源氏が始まって、藤野姓を名乗り、藤野八郎と号した。地名としては、藤木(ふじのき)町がある。
その子孫は、徳川時代の酒井藩の重臣になり藤野姓としての資料がある。
C)孝元天皇の子孫説
8代孝元天皇の皇子大彦命の後衛は、陸奥の安倍氏であり、安倍氏が滅んだのち、その遺子が安東太郎と称して、安東氏の始祖となった。
その子孫は、各地に広がり鎌倉、京都にも進出し、公卿の藤原氏と姻戚になった安東兵衛高平が、美作安東氏の初代となった。江戸時代に安東氏の分家の与五右衛門が、藤野茂左衛門を名乗り、美作藤野氏の始祖となった。藤野縣の地名を名乗ったようだ。
安東氏と共に、美作の津山藩主となった森忠政に仕え、その奉行役を務めた。
D) 藤原北家日野氏藤野氏
藤原内麻呂の子孫の日野氏の流れで、日野将監藤原友房から出ている。友房のあと、玄浄、玄海、玄秀、恵秀、正左衛門、半左衛門などのあと、藤野利夫の名前が表れる。
日野の地名の地区に、藤野の地名があるからであろう。
E) 幕臣の藤野氏
秀忠の時代に御家人に召しかかえられた藤野氏は、藤原氏の支流であり、その始祖は藤野治左衛門景在といった。
そのあと六代を経て、在親となり勘定奉行をつとめた。その子は在格(幸次郎)も同役をつとめた。
F) 氏人
藤野氏を名乗る人物は、諸国に散在している。
この本に記載されている7人と私補足3人の名前と地区名だけを、記載しておく。
1)藤野(輔治野)宿禰 :備中川上郡
2)藤野太郎左衛門 :上野国
3)藤野西右衛門 200石 :田中家家臣
4)藤野氏春 儒者 :京都
5)藤野三楽 茶道達人 :京都
6)藤野孫市 造林業 :隠岐の島
7)藤野斎 山國隊隊長:丹波山國村
8)藤野七之充 200石 :黒田藩
9)藤野喜兵衛 松前藩 :有力商人
10)藤野正啓 伊予国 :漢学者
11)藤野厳九郎 医学者 魯迅の教師:あわら市
以上
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