2022年9月9日金曜日

茶道と茶室と茶庭の歴史 (編集)

茶道に関する文化は、多くの人物の思想・理念・構想により生み出されたもので、単純な伝統芸術ではない。今まで調べた時代ごとの人物の業績を編集してみた。

1)庭園設計の歴史

夢窓礎石(国師:1275~?)は、世界遺産に登録されている京都の西芳寺(苔寺)および天龍寺のほか、瑞泉寺などの庭園の設計で知られている。

作風は、自然の眺望・景観を活かしつつ、石組などによって境地を重んじる禅の本質を表現しようとしたものである。『夢中問答集』の第57「仏法と世法」の項では、疎石の庭園に関する考えが述べられている。

夢窓疎石設計による庭園一覧


2)茶道の歴史


茶道は、鎌倉時代に栄西(えいさい・ようさい:1141~1215)が臨済禅とともに抹茶法を伝えたことに始まり、時代が下がって南北朝のころには、一定の場所に集まって茶の「本非(ほんぴ)」を当てる遊技である闘茶が流行しました。

茶道は、室町中期になると、貴族の建築であった書院造りが住宅として普及し、会所で催されていた茶会が書院の広間で行われるようになり、足利義満・足利義教の同朋衆の能阿弥(のうあみ)は書院茶の作法を完成させました。

能阿弥に書院茶を学んだ村田珠光(むらたじゅこう:1423~1502)は、当時庶民のあいだに伝わっていた地味で簡素な「地下茶の湯」の様式を取り入れ、さらに大徳寺の一休宗純(いっきゅうそうじゅん:1394~1481)から学んだ禅の精神を加味して、精神的・芸術的内容をもつ茶道を作ります。

村田珠光が他界したあと、武野紹鴎(たけのじょうおう:1502~1555)が唐物の茶器のかわりに日常雑器を茶の湯に取り入れ、「わび茶」を完成させ、単なる遊興や儀式・作法でしかなかった茶の湯が、わびと云う精神を持った「道」に昇華していきます。

茶道はその後、武野紹鴎の弟子の千利休(せんのりきゅう:1522~1591)によって安土桃山時代に完成されます。

利休の茶道は、蒲生氏郷(がもううじさと)、細川三斎(ほそかわさんさい)、牧村兵部(まきむらひょうぶ)、瀬田掃部(せたかもん)、古田織部(ふるたおりべ)、芝山監物(しばやまけんもつ)、高山右近(たかやまうこん)ら利休七哲と呼ばれる弟子たちを生み、さらには、小堀遠州(こぼりえんしゅう)、片桐石州(かたぎりせきしゅう)、織田有楽(おだうらく)ら茶道流派をなす大名も現われます。これを武家茶道、或いは大名茶などと呼ぶこともあります。

千利休の死後、二代少庵宗淳(しょうあんそうじゅん)を経て、千利休の孫になる三代元伯宗旦(げんぱくそうたん)の次男の一翁宗守(いちおうそうしゅ)、三男の江岑宗左(こうしんそうさ)、四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ)がそれぞれ、官休庵、不審庵、今日庵として千利休以来の道統を継ぎ、官休庵は武者小路千家、不審庵は表千家、今日庵は裏千家三千家に分かれました。


3)茶室の歴史

15世紀の人物である村田珠光は一般に侘び茶の祖とされているが、その生涯や事績については不明の部分が多く、珠光の造った茶室も現存していない。利休の高弟である山上宗二が著した『山上宗二記』には「珠光は四畳半、引拙は六畳敷なり」とある(引拙は珠光の弟子の武家茶人・鳥居引拙)。

「東大寺四聖坊数寄屋図」という古図(『南方録』所収)には「珠光好地蔵院囲ノ写」、すなわち珠光が好んだ(「創った」の意)茶室の写しという四畳半の存在が記録されている。それによれば、この四畳半には一間(畳1枚分の幅)の床(とこ)、檜の角柱、襖2枚、障子3枚(「明り障子三本」)があり、天井は高さ7尺1寸の「鏡天井」、壁は「張付」即ち白い鳥子紙を張った書院風のものであったと推定される。

茶室を独自の様式として完成させたのが千利休である。利休は侘び茶の精神を突き詰め、それまでは名物を一つも持たぬ侘び茶人の間でしか行われなかった二畳、三畳の小間を採り入れ(『山上宗二記』)、採光のための唯一の開口部であった縁の引き違い障子を排して壁とし、そこに下地窓、連子窓や躙口をあけた二畳の茶室を造った。

壁も張付などを施さない土壁、それも仕上げ塗りをしない荒壁で時には藁苆を見せることさえ厭わなかった。室面積の狭小化に合わせて天井高も頭がつかえるほど低くしそのデザインも高低に変化を持たせ、材も杉板、網代、化粧屋根裏にするなど工夫をこらした。

茶室待庵(国宝)は千利休の作とも言われるが、侘び茶の境地をよく示している。

躙口は、千利休が河内枚方の淀川河畔で漁夫が船小屋に入る様子を見てヒントを得たという伝説がある。しかし、躙口の原型とみられる入り口は、武野紹鴎の時代の古図にも見られ、また商家の大戸に明けられた潜りや能舞台における切戸(囃し方の入り口)など同類の試みは多種見られることから、利休の発明とは言えない。

むしろ利休の功としては、躙口、土壁、下地窓、建材としての竹など、それまで僧俗の建築物の間に行われていたさまざまの要素を躊躇なく採りいれた点にある。

利休は一方で、秀吉の依頼で黄金の茶室を造っている。これは解体して持ち運びできるように造られていた。黄金の茶室は秀吉の俗悪趣味として批判されることが多いが、草庵の法に従って三畳の小間であり、それなりに洗練されたものも持っている。黄金の茶室も利休の茶の一面を示しているという見方もある。

古田織部小堀遠州らも茶室を造っている。茶室は小さな空間であるが、様々なパターンがあり、多様な展開を見せている。利休の孫宗旦は究極の侘びを追求して、利休が試みてすぐ廃した一畳台目という極小の茶室を生み出した。これに対して、古田織部、小堀遠州、織田有楽金森宗和ら大名茶人は、武家の格式を持つ書院風茶室や小間と言えど三畳前後のゆとりのある茶室を生み出した。千家歴代もそれぞれに新たな茶室を好んで(=創って)いるが、その試みは必ずしも宗旦が目指した侘びに徹したものとはなっていない。

茶室は小規模でもあり、解体して他の場所で再建することも比較的容易である。現に如庵(国宝)は、京都建仁寺から東京の三井家大磯の三井家別荘、犬山名鉄有楽苑、と度々移築されている。また「写し」と称して、名席と評される茶室を模して建てられることもしばしばある。

4)茶庭の歴史

露地(ろじ)とは茶庭(ちゃてい、ちゃにわ)とも呼ばれる茶室に付随する庭園である。

露地は、本来は「路地」と表記されたが、江戸時代の茶書『南方録』などにおいて、「露地」の名称が登場している。

これは『法華経』の「譬喩品」に登場する言葉であり、当時の茶道が仏教を用いた理論化を目指していた状況を窺わせる。

以後禅宗を強調する立場の茶人達によって流布され、今日では茶庭の雅称として定着している。

発生と発展

小間の茶室に付随する簡素な庭園は、広大な敷地を持つ寺院などではなく、敷地の限られた都市部の町屋において発達したと考えられる。

こうした町屋では間口のほとんどを店舗にとられていたため、「通り庭」と呼ばれる細長い庭園が発達していたが、さらに茶室へと繋がる通路、「路地」が別に作られるようになった。

山上宗二記』にはの市中にあった武野紹鴎の邸宅の四畳半の茶室の図が掲載されており、図によればこの茶室が「脇ノ坪ノ内」という専用の通路と「面(おもて)ノ坪ノ内」という専用の庭をもっていたことがわかる。

同じころ奈良の塗師松屋松栄が設けた茶室の図には飛び石の記載があり、また待合の原型と思われる「シヨウギ(床几)」の書き入れもある(「松屋茶湯秘抄」)。

露地には樹木等は里にある木も植えず人工を避け、できるだけ自然に山の趣を出すため、庭の骨組みをつくるのは飛石手水鉢である。

後には石灯籠が夜の茶会の照明として据えられるようになるほか庭に使われる手水鉢や灯籠は、新しくつくるよりは既存のものが好まれ、また廃絶や改修で不要となる橋脚や墓石などが茶人に見立てられ、庭の重要な景として導入されていく。

こうした茶室の構造は敷地の広い寺院や武家屋敷にも取り入れられるようになり、中潜りや腰掛待合とつくばいを備えた現在の茶席に見るような様式化した茶庭が成立する。

こうして町衆の人々に育まれた茶の湯や茶庭はやがて、利休の弟子で武家茶道を発達させた古田織部(1544~1615)や小堀遠州(1579~1647)のような武将の手に移るころには、かなり内容が変化している。

露地は広い大名屋敷内につくられた関係もあって広くなり、途中に垣根を一つ二つつくって変化をつくり、また見る要素を強くするようになる。

平庭に近かった露地に築山をもうけ、流れや池までもつくり、また石灯籠が重要な見どころとなっていく。ここには寝殿造風な庭園の伝統や書院庭の石組みの流れと触れあう面があったがこうした庭園の例としては桂離宮の庭園が現存する。

織部や遠州の茶や庭園は利休のそれに比べると作意が強いといわれ、利休が作意をも自然らしさの中に含みこもうとしたのに対し、織部の鑑賞を重視した茶庭には、作意が表面に押し出され、飛石や畳石を打つときは大ぶりなもの、自然にあまり見られない異風なものを探し求めたとされる。

それまで飛石には小さい丸石を使っていたのを織部は、切石のしかも大きいものを好んで用いているほか、自身が考案したと伝えられる織部灯籠のきりっとした形は彼の作風がよく現れ、露地にあっても作意の横溢したこの「織部灯篭」をつくばいの鉢明かりとして据えるなど興趣をこらしている。

なおこの織部灯篭は、その竿部分にマリア像らしき像を掘り込んでいることから別名「キリシタン灯篭」ともいい、織部がキリシタンであったとの憶測も呼んでいるが、像がマリアであることも織部がキリシタンであったことも、ともに確証はない。

織部の弟子である小堀遠州は作庭の名人として知られるが、席中の花と庭園の花が重複することは興を削ぐとして禁止し、以後の茶道界の大部分で慣習となっている。

露地の植栽

利休の侘び茶は「市中の山居」を追究するものであり、茶庭における植栽もカシヒサカキなどの目立たない常緑広葉樹、また、マツなどのような山里の風趣を感じさせる樹木を推奨した。それに対し、美観を重視した古田織部は、植栽においてもヤマモモ(楊梅)やビワなど果実をつける木の栽培を一本のみなら許容し、ソテツシュロなど異国情緒を感じさせる、いわゆる「唐木」の植樹を推奨した。

「きれいさび」の美意識で知られる武家茶人の小堀遠州は、香りや彩りによって季節感を演出できるモクセイモッコク(木斛)の植栽を勧めた。

露地は茶室建築と一体のものとして扱われたと同時に茶人の好みを強く反映するものであり、それは構成の面ばかりではなく、植栽の面でもあらわれた。

松花堂茶室「竹隠」の露地


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