1)人類の生活に必要な移動:
狩猟時代、人々は食糧採集のために移動をしており、鳥獣を追って山野を歩き、魚をとるために川を上下した。
弥生時代に入ると農民は定住したものの、猟人、山人、漁師などによって食糧採集の移動は継続、
また農民以外の職は行商人であったり歩き職人であったりした。
当時は人口が少なく、待っていても仕事にならず、移動をして常に新規顧客を開拓する必要があった。
中世から近世にかけては店をかまえる居商人が次第に増えたものの、かわらず移動をする商人・職人も多かった。
例えば、富山の薬売りなどのほか、芸能民、琵琶法師、瞽女等々もいた。
行政によって強制された移住も多かった。
防人では東国の民衆がはるばる九州まで赴いた。また庸調などの貢納品(租庸調という一種の税金)の運搬で、重い荷物を背負って都まで行かねばならず、途中で食糧もつき落命する者が絶えなかった。
ちなみに日本の民俗学者の柳田國男は(日本の)旅の原型は租庸調を納めに行く道のりだ、と述べた。
食料や寝床は毎日その場で調達しなければならず、道沿いの民家に交易を求める(物乞いをする)際に、「給べ(たべ)」(「給ふ〔たまう〕」の謙譲語)といっていたことが語源であると考えられる、と柳田は述べている。
近世に入り、人口が3000万人となるころ、米の生産量も頭打ちとなり、商人や運送の専門業者が出現し、北海道の昆布や鯡など、各地の特産物を、江戸や関西の大都市に運送して消費者に販売するようになった。各地方も、特産物の生産を活発に行うようになり、物資の運搬のための移動により経済市場が拡大していった。
このため庶民も、他の地方の物や文化に関心をもつようになり、旅行への意欲がしょうじてきた。
2)自発的に行う旅行
やがて庶民が自由に自発的に行う旅が生まれ発展していった。
平安時代末期までは交通環境は厳しく旅は危険を伴い、こうした苦難に挑むのには信仰という強い動機があった。
僧侶は修行や伝道のため、一般人は社寺に参詣するために旅をした。
平安末から鎌倉時代は特に熊野詣が盛んであった。
室町時代以降、伊勢参りが盛んになり、また西国三十三所、四国八十八箇所のお遍路などが盛んになった。
宿泊費については15世紀には既に畿内で旅籠の定額制が確認され、遅れて16世紀には列島の広域で定着していた。
中世後期には既に一般の庶民が広範囲な旅行を行いうる環境が成立しており、遠方への旅行も可能な環境が整備されていた。
それまで徐々に発達してきた交通施設・交通手段が、江戸時代に入ると団体旅行が飛躍的に行われるように、専門業者の組織が整備された。
徳川家康は1600年の関ヶ原の戦いに勝つと、翌年には五街道や宿場を整備する方針を打ち出し、20年あまりのうちにそれは実現した。
藩主の参勤交代の制度により、全国の街道や宿場が一層整備された。
宿場町には、宿泊施設の旅籠や木賃宿、飲食や休息をとるための茶屋、移動手段の馬や駕籠、商店などが並んだ。
また貨幣も数十分の一〜数百分の一の軽さのものに変わり、為替も行われ、身軽に旅ができるようになった。
またそれまで多かった山賊・海賊も、徳川幕府300年の間にずいぶん減り、かなり安心して旅ができるようになった。
江戸時代には駕籠や馬も広く使われてはいたが、足代が高い事から長距離乗るのは大名や一部の役人などに限られ、一般人は使うとしてもほんの一部の区間だけが多かった。
船に乗る船旅も行われ、波の穏やかな内海は比較的安全で瀬戸内海や琵琶湖・淀川水系、利根川水系などでよく行われていたが、外海では難破の恐れもある危険なものであった。
農民の生活は単調・窮屈・暗いものであって旅をしたがったが、各藩のほうは民衆が遊ぶことを嫌い禁止したがった。
だが参詣の旅ならば宗教行為なので禁止できず、人々は伊勢参宮を名目として観光の旅に出た。
庶民の長旅できる機会は、一生に1度かせいぜい2度と、とても限られ、一度旅に出たからにはできるだけ多くの場所を見て回ろうとした。
京・奈良などでは社寺の広大さに感嘆し、大坂では芸能浄瑠璃や芝居に酔った。
若者の中には宿場の遊女と遊ぶ者もいた。旅が貴族や武士だけでなく、一般民衆にも広まった。
現代と比べて娯楽が少ない当時、旅の持つ意味ははるかに大きかった。
また、江戸期には十返舎一九の東海道中膝栗毛などの旅を題材とした旅文学・紀行文や絵画作品も多く作られた。これで地方の行事や、器具などが紹介され、地方文化が全国に知られるようになった。
なお幕末から明治期の駐日イギリス外交官アーネスト・サトウはその著書「一外交官の見た明治維新」のなかで「日本人は大の旅行好きである」と述べている。
その理由として、「本屋の店頭にはくわしい旅行案内書(宿屋、街道、道のり、渡船場、寺院、産物などを記載したもの)、地図がたくさん置いてある」ことなどを挙げている。
近代になり、鉄道と汽船が利用できるようになると、一般人でも長距離の移動が楽にできるようになった。
1886年、修学旅行の嚆矢とも言われる東京師範学校の「長途遠足」が実施される。東京から銚子方面へ11日間軍装で行軍するという、軍事演習色の強いものであった。
第二次世界大戦の戦局が悪化した1944年(昭和19年)3月14日には、決戦非常措置要綱に基づく旅客の輸送制限に関する件が閣議決定され、通勤・通学以外の旅行は自粛の徹底が進められた。
当時は、長距離移動に適した道路網が未整備であったことなどから、旅行の自粛規制の対象は鉄道に集中した。同年4月以降、長距離移動に欠かせない特別急行列車やほとんどの急行列車が廃止されたほか、寝台車や食堂車の連結も取りやめられた。
戦後の自動車、電動化、航空機、大型船舶などの発達による国内、海外の旅行ブームは、衆知のとおりである。情報技術の発達により、旅行情報も容易に入手できるようになった。
世界的に平和な時代に海外旅行ブームがおこり、その総費用は総軍事費の20倍以上と言われる時期もあったが、その後のCO2による温暖化、エネルギー問題、コロナ流行などにより急減している。
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