2022年9月29日木曜日

フォンテーヌブロー宮殿とその森

 「何世紀にも渡る王の家」とはナポレオン1世がフォンテーヌブロー城を指して言った言葉。

その言葉通り、12世紀から19世紀まで800年に渡って王の居城でした。

フォンテーヌブロー宮殿とその森は、1981年にユネスコ世界遺産に登録されています。






パリー郊外の有名なベルサイユ宮殿よりさらに南東の地に、この宮殿はある。

フォンテーヌブローの地を好んだフランソワ1世は、1528年、かねてより存在していた中世の要塞を増築して、国内最大のルネッサンス様式の宮殿にしました。

その後、宮殿には数世紀にわたって歴代の国王が居住し、それぞれが自分の好みに応じて改築を続けました。

そのため、様々な建築が混合する今日の形となったのです。

フランソワ1世の時代には、南門ポルト・ドレ(黄金の門)、舞踏の間、白馬の庭がフランソワ1世の回廊で繋がれましたが、これらは当時、イタリアから呼ばれた2人の芸術家プリマティッチョとロッソが才能を競い合って装飾したものです。羽目板にフレスコ画やスタッコの彫刻、木彫細工を施すという装飾パターンを取り入れた彼らは「第一フォンテーヌブロー派」と呼ばれました。

息子アンリ2世の時代になると、建築家フェリベール・ド・ロルムによって宮殿の大拡張が行われ、雄鹿の回廊、ディアヌの回廊とドーフィヌ門が繋がれました。

第2段階目の拡張工事はフランス、フランドルの装飾画家にも注目され、城の装飾を申し出た彼らにより、王の私室やディアヌの回廊、三位一体礼拝堂のヴォールト天井の装飾がされました。

この時代に活躍した芸術家は「第二フォンテーヌブロー派」と呼ばれます。

その後ルイ16世の時代に至るまで城の増築と改修は続きましが、フランス革命の勃発によって、城の調度品はすべて売り払われます。

革命後、ナポレオン1世がフォンテーヌブロー宮殿を訪れた時には、城館は全く空の状態になっていました。ナポレオンは家具調度品を新調し、自分の好みの居城にするため宮殿内を改装し、小住居棟Petits Appartementsを整備しました。

この宮殿の歴史は、フランス革命を経て19世紀のナポレオン3世の時代まで続きますが、その中で大きな足跡を残したのが、フランスの生んだ英雄ナポレオンでした。

フランス革命後の混乱期に英雄となり、皇帝にまで登りつめたナポレオン1世もまた、緑に囲まれたこのフォンテーヌブローの宮殿を愛し、好んでよく逗留しました。 
 しかし、そんなナポレオンが退位勧告を受けて帝位を剥奪され、流刑地であるエルバ島へと旅立ったのも、この宮殿からでした。彼は、この宮殿の中庭で腹心の部下たちに別れを告げ、彼らの涙の中で無念の旅立ちをしました。

フォンテーヌブロー宮殿では、「玉座の間」「退位の間」などのナポレオンゆかりのいくつかの部屋も見所の一つになっているほか、ルイ15世の翼館には「ナポレオン1世博物館」が併設されています。
 

ルイ・フィリップの時代、宮殿は全面的な修復工事が行われ、第二帝政時代にフォンテーヌブローは再び活気を取り戻しました。

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